2009年8月 3日 (月)

ナメクジを退治する

 TAM手技療法が続いているところにこんなものをはさんでもいいのか、とは思いますが、もともと雑多なブログですから…。

 我が家では、今年はなぜかナメクジが大量発生しました。犬の餌にたかり、コンクリートの上に並び、浴室にまで侵入する。ムカデや毛虫のように刺されるわけではないのですが、なんとなく精神衛生に悪いものです。花や野菜を齧ることもありますし…。ということで、今年は思い切って駆除に乗り出すことにしました。

 最初は殺虫剤を考えましたが「使用後のビンは必ず三回以上洗ってから捨てること」などの怖そうな文章が並んでいて、二の足を踏みます。

 そこで思いついたのが、ビールを使う方法。ビールを入れたコップを置いておくと、匂いに引かれたナメクジが入り込んで死ぬと言うのです。

 さらに言えば、ビールを使うのももったいないので(酒飲みの思考)、手近なもので合成してみました。成分は以下の通り。

 水      … コップに半分。

 アルコール … 濃度が5~10%位になるように。

 米ぬか   … ひとつまみ。

 完全自然素材(笑)。
 重要なのはアルコールです。アルコールの匂いに引かれるという意味では誘引剤ですし、効果の意味では殺虫剤でもあります。アルコールがあまりにも多いと、刺激が強すぎるらしく入りませんでした。ビールと同程度の濃度が良いようです。私は消毒用エタノールを使いましたが、酒なら焼酎でも何でもいいと思います。

 米ぬかがない場合には、水の替わりに米のとぎ汁を入れればいいでしょう。

 湿気の多い日に試してみてください。すごいです。ただし、入った後のコップをあまりじっと見ないことをおすすめします。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年5月 8日 (金)

失敗のベテランを目指せ

 先月、娘が三歳になりました。
 ついこの間、二歳になったばかりの気がしますが、時間のたつのは早いものです。

 この一年、彼女にとっては失敗ばかりの一年だったなあ、と思います。
 二歳前くらいから、どんなことでも自分でやりたがるようになったので…。

 洋服を畳もうとする。
 ボタンを自分で留めたがる。
 鉛筆を削ろうとする。
 そしてその全てに失敗して、かんしゃくを起こす(笑)。

 「本人のやりたがることはなるべくやらせる」という甘い親の元、彼女の生活は毎日が失敗とともにあります。
 この年齢の偉いところは、失敗ばかりしているのに懲りないところですね。親の手を振り払い、あきらめもせず繰り返しているうちに、少しずつ出来ることが増えてきます。

 少年が事件を起こすと、決まって新聞などにでるコメントがあります。
 「子供のころから甘やかされて全能感を持ち、挫折に弱い」という例のあれ。どうも違和感があります。
 甘やかし、子供のやりたいことをやらせていれば、子供は必ず失敗するもの。毎日が挫折の連続で、全能感など持ちようがないと思うのですが…。

 あるいは、甘やかすという定義が違うのでしょう。
 挫折に弱い子供は、好き勝手を許されたのではなく、囲われていたのかもしれません。親の手出しや、先回りした指示で、本当ならたくさんあるはずの失敗を、得られなかったのではないでしょうか。
 失敗できなかったゆえに、万能感が保たれてしまったのなら、哀しいことです。

 本当の甘やかしは、意思を尊重すること。そして意思を尊重する限り、子供は失敗します。
 無駄といえば無駄なのですが、子供にはたくさんの失敗を与えたいです。失敗しつつ、それでもめげない失敗のベテランとして成長させたいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月 1日 (水)

エイプリルフールに結婚しました

 4月1日といえば、世間ではエイプリルフールです。ウソをついてもいい日ということで、なるべくウソをつくように小学生のころから心がけています。

 この4月1日、私にとっては結婚記念日でもあります。正確には、3月31日が結婚式、4月1日が入籍の日です。別にこの日を選んだわけではなく、式場の予約がたまたま空いていただけなのですが。
 でも、考えますよね? 結婚式の次の日がエイプリルフールだったら。

 当時は会社員でしたが、結婚について職場では一切口外しませんでした。それまでに話していた友人と上司には緘口令を敷きました。そして3月31日、家族だけのささやかな結婚式をすませたのです。

 4月1日、午前休をとって区役所に結婚届を提出した後、出社しました。
 午後の仕事は昼礼から始まります(フレックスタイムの会社だったので)。その日の当番による短いスピーチ、ちょっとした連絡事項の後、上司が言いました。

「他に何か、連絡事項のある人は?」

 私は手を挙げました。

「はい、池浦君」

「さっき結婚してきました。よろしくお願いします」

 上司も一緒になって悪乗りしてくれました。「じゃあ、そういうことで」とあっさり昼礼を終了させたのです。ウソか本当かわからずに、顔を見合わせる同僚たち。これこれ。これがやりたかったんですよ。一生に一度のエイプリルフールネタ。

 席に戻っても、回りはひそひそ話をしていて、誰も話しかけてきません。
 しばらくして隣の席の先輩が、

「エイプリルフール?」

「本当です」

「えー!」

 そこからようやく話しかけてくる人が増えてきましたが、それでも信じる人、まだ騙されていると思っている人など、様々でした。一週間たってもまだ信じていない人もいましたから。
 このあと私は、なぜか「うそつき」と言われていました。エイプリルフールに本当のことを言っただけで、ウソはついてなかったのですが…。

 ちなみに、この話は全て本当ですよ?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月18日 (水)

役立つ雑音

 いまでこそ寝つきの良さは折り紙付ですが、昔は眠れないこともありました(ごくまれに)。

 こんなときは、ちょっとした音が気にかかったりしました。風の音や、遠くの車の音、挙句には時計の動く音までうるさく感じたものです。

「もっと静かなら眠れるのに…」と思ったりしましたが、今にして思えば逆でしたね。静か過ぎる環境は、かえって神経を敏感にするのです。

 人間が一番リラックスできるのは、適度で変化の少ない雑音の中だそうです。 変化が少ない、というのは、音の大きさが変わるたびに神経が刺激されるため。単調なほうがいいのです。

 「意味がない音」であることも必要です。人の言葉や、歌詞のある歌では、つい聞き取ろうとしてしまうため、リラックスすることも集中することもできません。
 学生のみなさん、歌を聴きながら勉強するなんて、無理な話ですよ?

 ある会社では、社員が仕事に集中できるように社内に単調な音を流しているとのこと。他の社員が電話する声や、関係ない会話が雑音で打ち消されて、仕事の能率が上がったといいます。

 この話に感心して、私もやってみることにしました。「せせらぎの音」とか「波の音」といった環境音のCDを買ってきて、電車などで聞くことにしたのです。なるほど、車内の会話や雑音が聞こえなくなり、集中できました。なかなかのスグレモノです。

 と思っていたのですが、つい数日前に気付きました。

 手元のラジオをFMにして、チューナーを音声の入らないところにあわせると、「サー」という、いわゆる砂嵐の音になります。こちらの音の方が変化が少ない分、安定して騒音を打ち消せて、はるかに実用的だったのです。べつにCDを買うこともなかったのでは?

 いいですけどね、環境音CDは治療室で使いますから…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月31日 (土)

変化…前回の続き

 「脳のトレーニング」が盛んに言われていますが、もっとも有効なのは、新しい技能の習得だそうです。どんな体操でも練習でも、有効なのは最初のうちだけ。そのうち動きや思考のパターンが脳にインプットされ、それをなぞるだけになります。こうなると何度繰り返しても脳には刺激が加わらないためトレーニングにならないとか。
 安定は衰退。新しい体験をすることが、健康上必要だ、ということになります。
 で、ここからが前回の続きですが、障害やトラブルは、そういう意味で役に立っているのではないか、とも考えられます。

 先日、テレビで面白い作曲ソフトウェアの話をしていました。CACIEという作曲支援ソフトで、作曲に遺伝アルゴリズムを使っているとのこと。
 このソフトは、ランダムに16のフレーズを作成します。使い手は、その中から自分好みのフレーズを選び出します。するとコンピュータは選ばれたフレーズを組み合わせ発展させて、また16のフレーズを作ります。これを繰り返しているうち、自動的にその人好みの曲が作成されるという仕組みです。
 面白いのは、好みでないフレーズも一定の割合で用いられること。また、それまでとは関係のない新しいフレーズも、突然変異的に入り込んで来ます。
 ソフト作成者いわく、好きなフレーズだけ残していると、いつも同じような曲ばかりになってしまうので、わざと好きでない音も残すとのこと。好きでない音が混ざることで、本人も気づかなかった好みや、新たなフレーズが発見されて新鮮な作曲が出来るらしいのです。

 好みのものばかりに囲まれると、人間は同じパターンの中に閉じこもってしまう。嫌なもののはずが、可能性を広げ衰退を防いでいるわけです。

 ケガや病気で人生観が変わった、という人もいるわけですから「障害は役に立つ」と割り切ることが出来れば、人生が楽しそう。
 「じゃあお前は障害が好きか」言われたら、確かに好きではないのですが…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月17日 (土)

歳の初めの試しとて。

 先日、ふと思いついて「理想の世界」がどんなものであるか、想定してみました。

 もちろん平和。戦争も紛争もない。病気も痛みもないし、犯罪も飢えもない。みんな笑顔で親切で、人と人の争いもない。失恋もないし、なりたいものには何でもなれて、欲しいものはすべて手に入る(物理的に可能であるかどうか、今は考えない)。
 そうしたら、どうもその世界に住みたい気が起こらないのですね。落ち着きが悪い。

 さらに私一人だけに都合の良い状態、という方向でも考えてみました。
 治療をすれば触るだけで治る大名人。良き友人にのみ囲まれ、気の合わない人と出会うことがない。もちろん金に不自由しない。どんな本でも読めばすぐに理解、記憶が出来て、文章もいつも思ったとおりにすらすら書ける。100メートルは8秒台で走れ、マラソンも柔道もアーチェリーも体操も得意で、金メダルを百個くらいもっている。事業を立ち上げれば大当たり、政治に口を出せば、全ての問題がすらすらと解決できるとしたら…。
 じーっと想像してみると、なぜかやっぱり楽しくない。

 阿波研造という弓の名人がいたのですが(オイゲン・ヘリゲル著「日本の弓術」に師匠として登場)、上達しすぎて、的に必ず当たるようになったために悩んだそうです。
 抽象画の大家ピカソは、もともと具象画を描いていました。ところがあまりにうまく描けることに悩み、挙句にキュビズムを考え出したという話を聞いたことがあります。
 一見逆のように思えるのですが、本人たちには深刻な問題だったようです。

 我々にもそんなところがありますね。登山なんて、わざわざ重い荷物を背負って、ろくな食事もないところまで歩いていきます。
 簡単なところでは、テレビゲーム。全ての敵が一撃で倒せるスライムで、ダンジョンが一本道で、魔王退治までさくさく進んだら…。断言してもいいですが、絶対売れないと思います。

 そう考えると「苦労がない、すべての願いがかなう状態」は人間の本能に合わない気がしてきました。
 私たちは不自由ない状態を望んでいるように見えて、実は望んでいないのかもしれないです。適度な障害を何とかしてクリアする、あるいはその方法を考えることのほうが、人間にとって楽しいのかもしれません。
 我々は日ごろ「ああー、ままならない」と思って生活していますが。この世界、本当は結構住みやすいのかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月28日 (金)

こんなタバコもあったのか

 私はタバコは吸いませんし煙も苦手ですが、その一方でタバコ文化には羨望を禁じえません。とくに葉巻やパイプには、コレクター的な広がりがあって面白そうです。この手の話を聞くと、自分とは縁のない娯楽をみる疎外感を感じますね。下戸の気分も、こんなものだろうかと想像したりします。もっとも、普通の紙巻タバコは面白みに欠けるので、迷惑な煙の発生源にしか見えませんけど。

 先日、喫煙家の先輩に送るつもりで変り種のタバコを調べていたら、スヌースというタバコを発見しました。指の先くらいの紙包みで、加工したタバコの葉が入っています。これを口の中に入れて(上の歯茎に挟む、と書いてある)、染み出すニコチンを摂取するわけです。火を使わないので副流煙はゼロ。禁煙車だろうが、子供や妊婦のいる場所だろうが、どこでも手軽にタバコを楽しめます。しかも一包みで数時間も保つらしいので、経済でもあります。発ガン物質のひとつタールが発生しないこと、肺に煙を入れないことを考えると、普通のタバコよりは健康被害もいくらか少ないかもしれません。

(こちらのホームページで見られます。 http://www.rakuten.co.jp/snus/index.html)。
 同じホームページで、粉末を鼻から吸い込む、かぎタバコも扱っていました。このスヌースもかぎタバコも、外国では比較的ポピュラーなものらしいです。しかし現在のところ、日本のタバコ屋ではこれらのタバコはまず売っていません。ほとんど通信販売オンリーです。
 
 このところ禁煙の場所が増えてきましたね。
 私は、煙を吸いたくない人に配慮している限り、喫煙は自由だと思います。楽しむのも害を受けるのも、本人は納得しているはずですからね(でも健康保険料はもう少し負担して欲しい。タバコ税を上げるより、健康保険料を一部負担してもらうほうが公平ではないでしょうか? どちらも値上げだから同じだといわれるかもしれませんが)。
 吸いたくない人がいる以上、場所を限定するのは仕方がないかもしれません。しかし公共の場を禁煙にするというのなら、煙の出ないタバコを入手しやすくする配慮があっていいと思います。自動販売機には必ず煙の出ないタバコを入れるとか、方法はあるはず。
 好みの違う人が共生するのですから、選択肢は多いほうがいいと思うのですが。

 さて、これを送った先輩の感想はいかに。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年10月28日 (火)

電脳化が招く世界は

 前回に引き続いて。
 アニメ「攻殻機動隊」は、ご覧になったでしょうか。
 このアニメの舞台は2030年の日本。電脳化と称して、人の脳がインターネットに直接接続されています。言葉や映像などが伝達されるのはあたりまえ。格闘技や射撃の技能までがプログラムとして販売されています。
 他人の脳にハッキングを仕掛け、見てもいないものを見せたり、記憶を操作したりする駆け引きが、このアニメの面白さでした。
 では、本当に脳が直接ネットで連結されたら、どうなるでしょうか。

 まず「浅い」接続。テキストデータや映像などをやり取りするだけならば、パソコンを使っている現在の生活と、さほど変わりはないでしょう。表示場所がディスプレイではなく、頭の中になるだけです。
 ただ、学習の機会は飛躍的に増えますね。テレビを見ていると、サブプライムローンだとか、シーア派だとかいう単語が飛び交っています。私たちはちょっとした興味を抱きますが、たいていの場合はわざわざ調べません。脳が直接ネット接続していたとしたら瞬時に、しかも自動的に調べられるようになります。知識のある人は増えるかもしれません。
 ただ、情報発信のハードルが低くなるほどに、価値のない情報が増える、という現状があります(現在、インターネットでやり取りされるメールの85%は迷惑メールだそうです)。人間の脳が直接インターネットに接続されたら、
「はらへった」
「ねむい」
 といった、どうでもいい情報がネットにあふれて、使い物にならなくなりますから、それを選別する方法を考える必要はありますが。

 では、もっと深いところまで接続し、他人の記憶や視界まで共有できたとしたら、どうなるでしょうか。
 いま私が「フェルマーの最終定理の証明」を読んだとしましょう。わけのわからない言葉や数式の羅列にしか見えないと思います。
 ところが、この定理を理解した人の脳から必要な情報を引用できるとしたら、話は違ってきます。数学の基礎知識から定理の証明にいたる各段階、理解にいたる筋道の記憶が、丸ごと自分のものになるのです。私は即座にフェルマーの最終定理を理解するでしょう。のみならず、もとの人の影響で「面白い!」と感じるかもしれません。
 そして、そこが問題でもあります。

 「理解」は、新しい知識をすでに持っている知識と関連付けること、といわれています。したがって、ひとつの情報を理解するために、イモヅル式に多くの情報がくっついてきてしまいます。
 例えば「鉛筆」について語るとき、それは「黒鉛と粘土を混合した芯を、木材で挟んだ筆記用具」だけを語っているのではありません。社会人は、鉛筆という単語にノスタルジックな響きを付け加えているかもしれません。鉛筆の貸し借りから恋が芽生えた、などというベタな経験を持つ人なら、恋人との様々な思い出が付帯していることでしょう。
 その人々から「鉛筆」という単語を背景付きで受け取れば、その思い出や感情までついてきます。「深い」情報共有では、他人の人生経験や価値観まで取り込まざるを得ないのです。
 例えば、アメリカ経済について調べていただけなのに、気がつくとアメフトを見たくなっているかもしれません。古典芸能を調べていたのに、蕎麦好きになっていたりするかもしれません。 いつの間にか自然に価値観が変化してゆきます。
 この「汚染」は、意識できませんし、事前の選別も不可能です。多くの人の脳が静かに混ぜ合わされるでしょう。

 さらにもっと深く接続されたら。
 取り込んだ他人の記憶と自分の記憶の区別がつかなくなると、
「昔の恋人とすれちがった。でも、自分の恋人だったかどうかわからない」
 などという、状況が出現するかもしれません。 
 それとも、過去いくつかのSFで書かれたような、自他の区別のない集合意識の生き物になり、平和な社会が到来するのか…。この手の話は、興味がつきません。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2008年10月22日 (水)

サイボーグの未来

 いよいよロボットスーツのリース販売が始まりましたねえ。茨城県つくば市、サイバーダイン社のHAL。人間が着込んで操作する、いわゆるパワードスーツです。

・参考 サイバーダイン社 http://www.cyberdyne.jp/index.html

 人間の動きを読み取り、モーターで補助するロボットスーツです。現在は主に福祉向け用途で販売されています。足に障害を持つ人を補助して歩けるようにしたり、怪力を生かして介護に利用したり、という目的ですね。
 子供のころ「ガンダム」なぞ見てしまった世代にとっては、非常に感慨深いものがあります。こうやってロボットは身近なものになってゆくのですねえ。そのうち、もっと優秀なロボットスーツを街中で見る日が来るかもしれません。
 
 ところで子供のころ、テレビでロボットと同じように扱われていたのが、サイボーグ。身体の一部を機械に置き換えた人間のことです。こちらの方も進歩しつつあって、皮膚からの電気信号で思い通りに動かせる義手が、実用化に入りつつあります。

 昔のSF…たとえば「サイボーグ009」では、超人的なサイボーグが出てきました。では、将来は街中で超人サイボーグを見るようになるか? …おそらくそうはならないでしょう。
 例えば、怪力を出せるサイボーグ。骨格から筋肉までサイボーグ化すれば、実現可能です。しかし先ほどのHALを使えば、同じことが手術なしで出来てしまいます。同じく、高速で走れるサイボーグでは、バイクに乗るだけで実現できます。
 大抵の能力は、道具の持ち換えだけで実現してしまうので、手術をしてまで身体に機械を埋めこむメリットがないのです。

 結局、実現するのは失ったものを取り戻すためのサイボーグだけでしょう。手を失った人のために手を、足を失った人のために足を。
 そのサイボーグも、iPS細胞をはじめとする再生医療の進歩で、やがては消えてゆくはずです。
 おそらく、未来の社会にサイボーグはいないでしょう。町にいるのは、今と同じ普通の肉体を持った人たちです。そしてところどころにロボットや、ロボットスーツがあって、人の生活を助けているのでしょうね。

 ただ、もう一つのサイボーグの形があります。アニメ「攻殻機動隊」にあったような、脳とコンピュータ(インターネット)を直結するサイボーグです。世界中にあふれている情報と脳を直結することで、人間の能力が飛躍的に拡大するというのですが…。
 これはちょっと面白い話ですので、また項をあらためて書いてみましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月27日 (木)

胚芽米が美味しい時代

 江戸時代に「江戸わずらい」という病気がありました。手足に力が入らなくなり、手足の感覚が鈍くなってしびれてきます。やがては全身にむくみが生じ、心不全を起こして死に至ります。いわゆる「脚気」です。
 現在では、脚気がビタミンB1の不足で起こっていたことがわかっています。ビタミンB1は米や麦の胚芽や、豚肉などに多く含まれています。当時の都会である江戸では、胚芽のない白米を食べていましたし、仏教の影響で肉類も食べませんでしたので、脚気が広がったのです。「白米は玄米や分搗き米(今で言う胚芽米)よりも美味しかったため、白米を食べる習慣が広がった」という説明がなされています。

 たしかに学生の頃、初めて食べた胚芽米はヌカ臭く、とても美味しいとはいえないものでした。その気持ちが変わったのは、最近のことです。
「家庭用の精米機って知ってます? 精米したてのお米は、味がちがいますよ」
 と患者さんに勧められ、好奇心にまかせて精米機を買いこみました。白米を作って炊くと、たしかに一味ちがう美味しさでした。
 そこで好奇心ついでに胚芽米を作ってみたら、昔食べた胚芽米と味が違うのです。甘味があり、歯ごたえがあって、むしろ白米よりも美味しいくらい。

 昔食べた胚芽米と、今の胚芽米の差。実は「精米したて」がポイントなのです。米のヌカには油脂分が多く含まれていますから、精米してから時間がたつと、酸化して嫌な匂いが出てくるのです。江戸時代はもちろん、つい最近まで、米は米屋でまとめて精米するものでした。それを保存して食べるわけですから、胚芽米では酸化がひどくて食べられたものではありません。そこでヌカ分をきれいに落とした白米食がひろがったのでしょう。

 今は家庭用精米機のおかげで、歴史上初めて、美味しい胚芽米が食べられる時代なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月20日 (金)

貧乏は正しい! …のか?

 近づいてきました、参院選。選挙が近づいてくると、どの政党も「庶民の味方」になりますね。いわく「庶民の生活を守る」「庶民イジメをやめさせる」もうちょっと行くと「大企業優遇をやめ、善良な庶民を助ける政治を」とか。

 この「庶民」って、誰なんでしょうか? 辞典では「一般の市民。社会的特権をもたないもろもろの人」(大辞林)となっていますが、文脈で考えると「社会的に弱い人、お金のない人」という意味ととってよいでしょう。
 つまるところ、庶民は被害者だ、という意味のこのフレーズ。
 「お金のない庶民は善良で、被害者。金と権力のあるものは悪者」
 いたるところで使われるこの図式を、我々は少し疑ったほうが良いと思うのです。

 もし
「帽子を持っている人は悪で、持っていない人は善」。
 こんなことを言ったら、馬鹿なことを、と笑われるのがオチです。皮膚の色やら、髪の色で善悪を分ければ、国によっては人種差別として投獄されます。持っているもので人の価値を判断しない。これが健全な社会の常識です。
 ところが「金持ちは悪、一般人は善」という図式だけは通用してしまいます。まあ、お金を持っている人が少数派で(あたりまえ)、持っていない人が多数派だから、こういった意見も出てくると思うのですが。

 ここまで読んで、
「いや、俺は金がないけど、べつに金持ちが悪人だと思わないぞ」
 と言う方。あなたはお金に関して健全な思想の持ち主です。そして、そこが問題の焦点です。
 金の量をモノサシに人を測る、ということは、その人が金に対して人一倍こだわりを持っている証拠。平たく言うと、金が欲しくて仕方のない人です。「金持ちは悪い奴だ」と非難する人の大半は、金が欲しいのに金がない人。だから、金持ちが許せないのです。

 前回書いた「認知的不協和」も一枚かんでいますね。自分が持っていない金を持っている奴が許せない。しかし理由もなく相手を非難すると、自分の了見が狭いと思えてきて、認知的不協和が起こります。
 そこで自己を正当化するために出てくるのが「金持ちは悪いことをして稼いでいるに違いない」という論理。さらに裏に返して「金がない人は正直な善人」と言えば、自分への慰めにもなりますから。もちろん、これが非建設的な思想であることは、言うまでもありません。

 不正をして金を稼いでいる人や、仕事もせずに税金から給料をもらっている人に腹を立てるのは、人として当然。しかし、正当な方法で、努力をして金持ちになった人をやっかんではいけないでしょう。また、貧乏人だから正しいともいえないですね。怠けて貧乏な人もいますし、浪費家の人もいますから。
 金があろうがなかろうが、善人は善人、悪人は悪人。金持ちが正しいわけではないし、貧乏が正しいわけでもない。持つものと人とを分けて考えることは、大事なことだと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月11日 (水)

「悪の組織」は栄えるのか?

 子供のころ見ていた特撮ヒーロー番組。出てきましたね、悪の組織が。
「我々は悪の組織、××団である」
 と名乗ったりして。
 もちろん当時は不思議だとも思いませんでしたが、よく考えれば自称「悪の組織」は不思議ですね。構成員たちは、あれでやる気が出せるのでしょうか?

 心理学の用語に、「認知的不協和」と言われるものがあります。「人間は一貫性がないこと(不協和)に不快感を感じる」という理論です。
 よく例に挙げられるのは、喫煙者。喫煙者も、煙草に害があるという話は知っています。しかし「煙草に害がある」と認識したまま煙草を吸い続けることは一貫性を欠きますから、この認知的不協和が起こります。
「煙草を吸いたい ⇔ 煙草は有害だから吸わない方がいい」
 という矛盾が生じるわけです。こうなると矛盾が不愉快なので、どちらかを変えなければなりません。たいていの喫煙者は「煙草を吸ってても長生きする人はいる」とか「煙草を我慢するストレスのほうが身体に悪い」とか、喫煙を肯定する意見を取り入れることで、矛盾の解消を図ります。

 さて、最初の話に戻ります。
 「悪の組織」の構成員たちは「自分たちは悪だ」と自分で言うことになります。悪いとわかっていて、その組織のために働く。ここに認知的不協和が生まれることはいうまでもないでしょう。当然、やる気は出ません。
「俺は正義のために戦う!」と言い切るヒーローに勝てないのは当然ですね。

 もっとも、わかりやすい「悪の組織」も、子供の一貫性に配慮したものです。子供は「それはそれ、これはこれ」という思考が苦手ですから、善は一貫して善、悪は一貫して悪でないと、認知的不協和がおきてしまって楽しめないのです。
 悪の側の事情がわかって、それでも楽しめると言うのは、大人の思考。

 最近は特撮でも筋立てが複雑になり、善悪が以前ほどシンプルに分かれていないそうです。そんな複雑にして、子供がついていけるのかな、と思ったら、ハマっているのはお母さん方だったりするらしい。
 なるほど、と思う次第です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月19日 (月)

原文を読もうね… 「学問のすすめ」編

 一万円札の福沢諭吉、彼の言葉で有名なものをあげよ、といわれれば、
「天は人の上に人を造らず」ですね。
 「人はみな平等」という意味で使われることが多いのですが、原文にはもう少し含みがあります。少なくとも「競争なんかしなくても、みんな特別なオンリーワン」とか、そういう話ではありません。

 では原文。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。」

 「言えり」がポイントですね。現代語訳だと「と言われている」というところでしょうか。こういう言い方の後には、「しかし」が来るのが、文章の定石。

「(中略)されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるものあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。」

 みんな平等だと言われているのに、なぜ差があるのか、と言っているわけです。それについての福沢の答えは明快です。

「その次第甚だ明らかなり。(中略)人は生まれながらにして貴賎貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。」

 人は生まれは平等だが、学問をして知識のある人は身分高く豊かになり、知識の無い人は身分低く貧しくなる、と言い切ってます。逆に言うと、どんな境遇であるかは、その人の努力によって決まっている、という自己責任の理論です。
 これが表題である「学問のすすめ」につながるわけです。

 誤解を招くと困るので付け加えておきますが、福沢諭吉は平等論者です。江戸時代、身分制度の理不尽に悩み、怒ったことは、この「学問のすすめ」からも「福翁自伝」からも見て取れます。「学問のすすめ」でも一章を費やして人権について述べています。
 ただ、彼の思いは「人は平等だ」いうだけではとどまらず、無知は罪悪、というところに及んでいます。封建制度で体験した不合理、迷信、非建設的な慣習への怒りが抜きがたくあったのでしょう。学ばないもの、自らの足で立とうとしないものをひどく嫌います。

「凡そ世の中に無知文盲の民ほど憐れむべくまた悪む(にくむ)べきものはあらず。智恵なきの極は恥を知らざるに至り、己が無智をもって貧究に陥り飢寒に迫るときは、己が身を罪せずして妄に傍の富める人を怨み、甚だしきは徒党を結び強訴一揆などとて乱妨に及ぶことあり。恥を知らざるとや言わん、法を恐れずとや言わん。」

 この言葉の勢いから、学ばない者に対する嫌悪を感じていただけるでしょうか。理性と合理的な思考こそが個人の生活を豊かにし、ひいては平和な社会をつくる、という思想が、彼の基盤になっているのです。
 
 「学問のすすめ」は明治の大ベストセラーとなりました。当時の国民の一割が読んだ計算といいますから、現在で言えば一千万部の大ベストセラーに匹敵します。
 身分制度の呪縛を解かれた人々にとって、学び、実力をつければ人生を開くことが出来る、という思想はそれだけ魅力的だったのですね。

 しかしその後、福沢が望んだような理性的な社会は完成せず、日本の近代は大きな波に飲み込まれることになります。
 そして、現代に至っても、まだ合理的な思考や、理性によらない現象は、決してなくなってはいません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月10日 (土)

原文を読もうね… 「坊ちゃん」編

 四国の松山市がメディアに出るたびに、必ず紹介されるのが、坊ちゃん団子、坊ちゃん鉄道、坊ちゃん文学賞などの「坊ちゃん○○」。
 いわずと知れた夏目漱石の作品、「坊ちゃん」ゆかりの名物の数々です。私はこれを見るたびに不思議に思います。どうして、松山の人は「坊ちゃん」を誇りに出来るのでしょうか?

「坊ちゃんは松山を舞台にした作品だから、不思議はないよ」
 と思う方のために、ちょっと引用してみましょう。
 東京を離れた坊ちゃんが、松山に着いた場面は、以下のように始まります。

 ぶうと云って汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。野蛮な所だ。
(中略)
 陸へ着いた時も、いの一番に飛び上がって、いきなり、磯に立っていた鼻たれ小僧をつらまえて中学校はどこだと聞いた。小僧はぼんやりして、知らんがの、と云った。気の利かぬ田舎ものだ。

 最初から「野蛮」に「田舎者」ときてますね。第一印象から見下してかかっているわけです。
 小説やドラマではこんな場合、何かの事件が起こって人々と気持ちを通じ、印象を改める……と進むのが一つのパターンです。アンチテーゼからテーゼへ、という物語の定石ですね。ところがこの小説は、そういう定石を無視して進みます。
 途中、天ぷら蕎麦を食べたことを生徒にからかわれる場面。

 冗談も度を過ごせばいたずらだ。(中略)田舎者はこの呼吸が分からないからどこまで押して行っても構わないと云う了見だろう。一時間あるくと見物する町もないような狭い都に住んで、外に何にも芸がないから、天麩羅事件を日露戦争のように触れちらかすんだろう。憐れな奴等だ。

 この生徒たち、最後まで名前もなく、個々の生徒を区別するようなセリフもありません。つまり最初から人物としては描かれず、単なる事物として描かれています。
 教師たち、他の登場人物も似たような扱いで、いくらかまともな会話をしているのは数学教師の山嵐だけです(もっとも彼は会津の出身ですが)。したがって、気持ちが通じるはずもなく、印象も改まりようがありません。

こんな卑劣な根性は封建時代から、養成したこの土地の習慣なんだから、いくら云って聞かしたって、教えてやったって、到底直りっこない。

 
とか、

こんな田舎に居るのは堕落しに来ているようなものだ。

 などと、こき下ろして続きます。そして物語の終盤、松山を去るシーンでは。

 その夜おれと山嵐はこの不浄(ふじょう)な地を離れた。船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした。神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、ようやく娑婆へ出たような気がした。

 「不浄な(汚い、穢れた)地」ですよ。
 どう考えても、わずかばかりの好意も感じ取れないのは私だけでしょうか。
 松山は、正岡子規、高浜虚子など、漱石にとって親しい人たちの出身地です。それなのに、なぜこれほどにけなし続けたのか、意図はわかりません。坊ちゃんの性格描写のため、というにはあまりにも度が過ぎている気がします。

 松山ゆかりの文学作品なら、司馬遼太郎の国民的名作「坂の上の雲」もあります。こんな罵倒に耐えてまで「坊ちゃん」を持ち上げなくても良いと思うのですが。

付記
今回の引用は、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)によりました。この青空文庫、著作権の切れた作品をまとめたインターネット図書館で、漱石や宮沢賢治などの文学から、西田幾多郎の哲学まで、名作が読みたい放題です。ぜひとものぞいてみてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月23日 (木)

ナトリウム、塩分換算

 健康に気を使う人が増えたせいか、食品の成分表示が詳しくなってきましたね。たんぱく質○○グラム、脂質○○グラム…。
 ところが、こういった表示をしたからといって、親切になっているわけではないのが本当のところ。たとえば成分表示の「ナトリウム」。

 手元にあるカップ焼きそば(大盛り)を見ると「ナトリウム2.4グラム」になっています。
「ナトリウムって、塩化ナトリウムのことでしょ? 2.4グラムなら意外と少ないね」
 と思ったら大間違い。これ塩分量を少なく見せるための、表示のマジックなのです。塩化ナトリウムは塩素とナトリウムが結びついたものですから、ナトリウムだけ表示すると、塩素分の重さが抜けて、少なく見えるのです。
 ここで問題です。ナトリウム1グラムは、食塩にして何グラムでしょうか?

 詳しい計算は省きますが、ナトリウム量に2.54をかけると、ほぼ食塩量を表示していることになります。先ほどの焼きそばでは2.4×2.54で、約6.1グラムになります。
「ナトリウム量に2.54をかけると、食塩量になる」と覚えてください。

 厚生労働省の基準では、一日あたりの食塩を10グラム以内にするのが目標ですから、この焼きそば一つで半分以上をとってしまっている計算になります。
 世界では「脂肪の少ない日本の食事は理想的」と言われるようになりましたが、実は塩分量だけは、世界的に見ても多いのです。(もっとも戦前の秋田県のデータでは、漬物などを多食で一日あたり50グラムの塩分をとっているケースもあったくらいですから、それに比べればずいぶん減っているのです)。

 では私は気を使っているのか、といえば。
 真面目に気をつけてるなら、カップ焼きそばなんか手元にないはずなのですよ。
 これから気をつけます。はい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月31日 (火)

図書館礼賛

 気がつくと、2週間以上も更新していませんでした。仕事が忙しかったり、バイクを買ったりしたこともありますが、最大の理由は図書館にはまっていたことです。
 本来の目的は治療関係の調べ物だったのですが…。途中で前から気になっていた確率統計の本やら、民俗学の本やらまでも借りこんで読みふけり、気がつくと二週間過ぎていたわけです。

 何年ぶりかで公立の図書館に通うようになってみると、なかなか便利になっています。図書館の蔵書はインターネットで公開されていて、自宅にいながら検索できます。最寄の図書館になくても、分館にある本なら、移動してもらえます(これは窓口で申し込みが必要。このあたりのサービスの悪さは公立の限界か)。さらに、所蔵していない本なら購入を依頼することもできます。こうしたサービスが全て無料。
 考えて見れば、これはかなりすごいことではないでしょうか。

 急に話が飛ぶようですが…。
 考古学の話を聞いていて、いまだに疑問に思っていることが一つあります。
「旧石器時代とは、人類が旧石器を作り始めた約250万年前から、新石器を作り始めた約1万年前までのことです」(国立科学博物館のホームページより)。
 大まかに言って、旧石器と新石器の違いは、打製石器か磨製石器かの違いです。石器を尖らせるために、叩いて(剥離)作るか、磨いて作るか。当時の人間の脳の構造は、我々と大差ありません。それなのに、誰でも思いつきそうなわずかな変化に、なぜ数百万年かかったのか?

 あえて素人考えを述べれば、情報の共有ができなかったからではないでしょうか。
 当時は言葉もまだ発展段階だったでしょう。言葉は小さな部族ごとに異なっていた可能性が高く、広く伝わることはありません。そして何よりも文字が発明されていませんでした。
 誰かが新しいことを思いついても、直接顔を合わせることができる、同じ言語の人間にしか伝わらなかったのです。
 先人が思いついたことを知っていれば、それを出発点にして新しい知識を組み立てることができます。また、情報を共有している人数が多ければ多いほど、新しいことを思いつく人の数も増えます。
 そう考えると、情報の共有こそが物事を変えてゆく力のはず。

 いまでこそ、インターネットで膨大な情報が共有できるようになりました。しかしそれ以前は、この図書館の役目がとても大きかったでしょう(いまでも、情報の確実性、まとまりという点ではインターネットよりも有利な点があります)。
 ごちゃごちゃと書いてきましたが、何が言いたかったかというと「金がなくても簡単な手続きだけで多くの本が読める図書館は便利な場所。というわけで、もっと図書館を利用したいものです」でした。 

 私の場合は近くに国会図書館の関西館もできましたから、ぜひとも利用したいと考えています。
 で、本を読みふけるとこのブログの更新も、また遅れるわけですね。一週間に一回くらいは更新したいと考えてはおります。考えてはおりますが…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月12日 (木)

下戸の遺伝子

 日本酒が好き、というと「強いんでしょう?」と聞かれることがしばしば。しかしながら、好きと強いとは必ずしも比例しません。私の飲める量は日本酒にしてせいぜい1、2合というところ。標準か、少し弱いくらいでしょう。
 もっとも、この「標準」は日本人平均の話で、酒が飲めない、いわゆる下戸の多い関西では「強いねえ」と言われることも少なくありません。土地によって、酒の強さの基準が違うのです。

 土地による酒量の違いは、遺伝子に基づいています。
 遺伝子に、下戸の遺伝子というのが存在します。この遺伝子を持つ人は、アルコール分解に使う酵素の一部を作り出すことができません。そのため、少量の酒で気分が悪くなってしまうのです。この下戸遺伝子を持つ人は近畿に多く、東北や九州では少ないとされています。つまり、近畿では飲めない人が多く、東北、九州では酒に強い人が多いことになります。
 ちなみにこの遺伝子、発生は大体2万5000万年から3万年前、中国大陸での突然変異によって生まれ、後に日本に伝わったとされています。土地による遺伝子の違いは、縄文人が住んでいた日本に、大陸から弥生人が渡ってきたという理論と一致しますね。

 ところで、私の妻は東北出身。周囲には酒豪が少なくありません。先日帰省の際、近所の奥さんに尋ねられました。
「旦那さん、お酒は飲むの?」
「はい、日本酒で三合くらいですけど」
 先ほど書いたよりも多いのは、見栄を張っています。ところが
「ああ、下戸なのね」
 …感覚の違いは、恐ろしく大きいのでした。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年9月25日 (月)

命をとること

 少し前、ある作家が飼い猫の子を殺している、というエッセーが問題になりましたね。
 飼い猫には、猫としての生活を全うしてほしい。しかし、むやみに子猫が生まれると、社会的責任が果たせない。そこで産ませることは産ませるが、その子猫を処分するという結論に至ったと、作者は書いています。このエッセーを載せた新聞には、轟々の非難が寄せられました。
 しかし私はこの作家を非難する気にはなれないのです。もちろん、避妊手術をするほうが良いとは思いますが。

 人間は、生きているかぎり他の生き物を殺さざるを得ません。
 野犬がうろついていれば保健所が捕獲してくれないかと思いますし、店で売っている鶏肉も食べています。他人が殺す役目をしているから、殺していることに気付かないだけで。
 あるシンガーソングライターが語っていたことを思い出します。
「生き物は地球の仲間ですから、殺しません。だから私は菜食主義です」
 実際、野菜を育てるには虫とりが欠かせません。いわば何匹もの虫の命をとって食べているのですが、そこまで想像力が及ばなかったのでしょう。重い行為を人任せにして優しさを語られても、虚ろに響くだけです。

 インドの行者には枯れた葉っぱしか食べないとか、虫を踏まないようにホウキを持って歩くとか、そんな人がいるとか。しかし実際のところ、われわれにはそんな生活はできません。
 ならば気付かないで優しいふりをする人より、殺す責任を引き受ける人の方が、人間として潔いのではないでしょうか。少なくとも、命を取って生きていることを忘れるべきではありません。
 そして、その責任を引き受けることは、自分の生命を肯定することにもつながります。

 養鶏場の娘として育った知人がいます。彼女に実家の養鶏場を案内してもらったとき、彼女は一羽のニワトリを指差して言いました。
「あれ、おいしそうでしょう?」
 あっけらかんと出される言葉は、ごく当たり前の調子、明るい声でした。私はこのたくましさに、健康な心を感じるのですが、いかがでしょうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月12日 (土)

男の陰謀!

 人間の場合、たいていは男よりも女性の方が、美しくなるための努力をしています。人間の文化に慣れているから当たり前に見えますが、生物の中では非常に珍しい現象です。
 多くの生物において、美しいのはたいていオスです。孔雀の美しい羽、鹿の立派な角、魚の婚姻色…。これには生物としての宿命が関わっています。オスは他のオスと競争し、自分の優秀性を示さなければ、子孫を残すことができないからなのです。一般の生物では、オスは常にふるいにかけられ、テストされる存在なのです。

 リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」説によれば、これはオスとメスの「労働量の違い」に関わった問題だそうです。
 動物のオスが子孫を残すには、精子を作り交尾すればすみます。恐ろしく楽ですね。
 しかしメスはタマゴのような大きな栄養源をつくったり、自らの体内で子どもを育てたりという、非常な重労働を強いられます。したがってメスとしては、どうせ重労働をするなら優秀なオスと子どもを作りたいと考えます。つまらないオスなど、相手にしているヒマがないのです。
 前述したように、オスが子孫を残すのに必要な手間はわずかなものですから、優秀なオスが一匹いれば、複数のメスの期待に応えることができてしまいます。そうして優秀なオスにはメスが集まり、そうでないオスは取り残されます(実際には、オスが餌を取ってくるなど、メスの負担を軽減することで選ばれる戦略もあり、一夫一婦制に近い形がとられることも少なくありません)。

 「一夫一婦制は不自然だ、浮気は男の本能だ」という主張がありますね。また「浮気は文化だ」という人も。しかし、これを主張する人は、たいていの場合もてる人でしょう。なぜなら、この理論どおりに考えると、多くのオスは余ってしまうからです。女性に経済力が出てきた昨今ならなおのこと。
 おそらく、私も余る側でしょう。一夫一婦制度あればこそ、多くの男性が家庭を持つことができるのです。

 そう考えると、一夫一婦制というのは、大多数の男が余らないように考えられた、男の陰謀なのかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月 4日 (火)

夢を持つ人を見分ける「方法」

 先日の記憶の方法に関わって考えたことですが。
 具体的な方法論の有無は、人を見る基準のひとつにもなりますね。

 「将来は○○になる!」という希望。この希望が実現可能な夢なのか、単なる妄想なのか、見分ける方法を読んだことがあります。それによれば「実現の方法を、段階を踏んで説明できるのが夢」だそうです。方法に飛躍があったり、確立の低い偶然に頼るものであれば、妄想だとのこと。

 例えば「起業して、大きな仕事がしたい」と語る人がいたとしましょう。その人が自分の適性を考え、必要な知識を学び、金の調達方法や人脈を作る方法を具体的に語れるなら、そしてそのコースに沿って努力をしているなら「夢のある人」と言えるでしょう。

 「いや、やるつもりだけど」と具体的に方法を語れない人。
「誰かが何とかしてくれるべきだ」という人任せの方法しか出ない人。
「世の中が間違っている。だからできないんだ」という言い訳ばかり語る人。
 こんな人は「妄想家」と考えていいでしょう。どんなに高邁な理想を抱いていても、どんなに見事な理論を言えても「方法」を持とうとしない人は口だけで終わります。

 ヒモになるダメ男は「将来は~をやって見せる」と大きな夢を語る場合が多いといいます。ビッグな夢を持つ彼氏ができた方は「どうやって?」と尋ねてみると面白いかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月29日 (木)

「質の努力」は人に優しい

 暗記法の話を書いていて思ったのですが。
 物事には大抵の場合、有効な方法というものがあります。記憶であれば大脳生理学、スポーツであれば運動生理学やスポーツ理論。先人が考え、獲得した方法論です。ところがなぜか日本では、このような方法論は軽視される傾向がありますね。そのわりに、努力は重視される。それも、努力の量を評価します。

「結果ではなく、どれだけ努力したかを評価すべき」
 私は、この言葉があまり好きではありません。努力の質より量を評価していると、間違った方向へエスカレートしやすいからです

 例えば、勉強の目的は知識を身につけること。それなのに「どれだけ長く勉強したか、どれだけ多くの問題を解いたか」が意識の中心になってしまいます。
 スポーツ部などで、これが集団で起こると悲劇です。努力していると見られたいために練習がエスカレートして、故障者がでるまで(場合によっては故障者が出ても)止まりません。
 会社などでもありますね。たくさんの仕事を抱え込んで夜中まで頑張り、非効率な仕事をしてしまうケース。まじめな人ほど、責任感のある人ほど、そうやって自分を追い詰めてしまいがちです。

 努力=善、という価値観では、人は休むことができなくなります(休むものは怠け者=悪ですから)。しかも量の努力をしている間は妙な充実感がありますから、なかなか改めることもできません。そうやっているうちに自分の心身や生活、場合によっては家族関係まで駄目にしてしまったり。
 量の努力は人に優しくない、と思います。

 「自分はこんなに頑張っているのに」という気持ちになったら、ちょっと努力の方向を見直してみたほうがいいのかもしれません。目的が何かを見直して、どうしたらその目的が実現できるか、良い方法を考える。「量の努力」から「質の努力」へ。
 それなら、自分にも他人にも、もっと優しくなれるはずです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月24日 (土)

三年生応援企画 暗記物勉強法⑤

5.教科書または、良い参考書を使う
 私は、教科書を中心に勉強しました。
 試験問題の9割以上は、教科書に書いてある範囲で出題されています。試験の合否ラインは明らかにされていませんが、だいたい6割がボーダーライン、7割なら安全圏と言われています。つまり教科書をしっかり勉強すれば、それだけで簡単に合格ラインに達してしまうのです。

 教科書よりも理解しやすい本があれば、それを使うほうが良いと思います。私が学生だった当時、評判が悪かったのは病理学の教科書でした。内容のまとまりが悪い上に文章も下手。勉強するのが苦痛でしたから。
 また解剖学でも、教科書だけでは骨や筋肉がイメージしにくかったので、参考書を買いました。

 参考書には、詳しいものの他に「要点暗記もの」(重要単語などが抜き書きになっている)がありますね。これは周辺情報が少なく、理解に結びつきにくいという欠点があります(第二回で書きましたね)。ただし、全体としてのページ数が少ない分だけ、読む回数を増やせるという長所もあります。 
 このあたりは、回数で割り切るか、理解を優先するか、個人の好みになってくるでしょう。

 なお、
「教科書だけでいいのか?教科書に載ってない難しい問題もあったぞ!」
 という意見もあろうかとは思います。時事問題や、特殊な問題が出ることもたしかにありますね。しかし、その数は一回の試験でもせいぜい数個に過ぎません。すべて落としたところで、9割以上は残っているわけですから、無視してかまいません。逆に、そんな問題までカバーしようとすれば、勉強時間がいくらあっても足りません。そんな時間があれば、教科書範囲の知識を固めるほうがはるかに有利です。
 過去問を解いて勉強していると、このような問題にもいちいち対応することになります。難問に振り回されないためにも、過去問を見過ぎないほうがいいでしょう。

まとめ
 頭に入りやすい方法は、人それぞれだと思います。とはいえ、外してはならない原則があるのも確かです。もう一度確認しておきますが、
① 内容を理解する
② 何回も復習を繰り返す

 という2項目は、どんな人にとっても共通の大原則です。これを忘れないで、覚えやすい方法を工夫してみてください。皆さんの合格をお祈りいたします。

付記…個人的体験
 私が試験対策を始めたのは12月でした。時間がない分、方法を工夫したといえます。
 この企画の一回目でも書きましたが、教科書を最初から最後まで繰り返し読むという方法を用いました。過去問は、授業でやった分を除いて一問も解いていません。ノートも筆記用具も使わないので、通学の電車の中が主な勉強時間にでき、便利でした。
 問題を解かないため、自分の実力がわからないという不安はありました。しかし、頭の中の知識量が問題だ、と割り切って勉強に専念しました。結果としては正解だったと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月19日 (月)

三年生応援企画 暗記物勉強法④

4.充実感と成果は別…書き写しのムダ
 書き写して覚える、という方法を使う人も多いですね。本来、書いて覚えるという方法は、漢字や英単語のつづりを覚えるのに有効な方法です。国家試験はマークシート式ですから、そんなことをする必要はないのですが…。
 しかも、内容を記憶するという点から言えば、かなり効率の悪い方法なのです。

 人間が手で書く速度は、読む速度に比べれば十分の一以下です。しかも手が疲れるために、書き取りできる回数は限られています。「記憶は回数」という法則に従えば、読むことにくらべてあまりにも不利です。

 また書き写すという方法は、理解の面からもお勧めできません。
 書くというのは手の作業ですので、頭を使わなくてもできます。というよりも、書き写すことに気を取られているときには、内容を理解する余裕はありません。
 やってみればわかりますが、今書いている部分を意識するばかりで、全体の流れや、内容の相関関係に意識が回りません。
 理解しないまま書き写しても記憶が定着しないことは以前に書いたとおり。つまり努力しているにもかかわらず、成果に結びつかないのが「書き写す」方法であるといえます。

余談ながら…
 書くことはこれほど効率の悪い方法なのに、なぜ実行する人が多いのでしょうか。それは、充実感があるからではないかと思います。
 過去問の回にも書きましたが、人間は「目の前で結果が出る」ことの誘惑に弱い生き物です。目の前で書き写したノートが埋まってゆく。自分がどれだけ努力したかが形になってゆくことの楽しさがあるので、それをやってしまうのではないかと思うのです。
 しかし充実感と成果とは全く別の問題です。どれだけハードな勉強をしても、記憶に残らないのでは意味がないのです。目先の充実感よりも、成果をあげられる方法を選択したいものです。
 なんとなく、スポーツのトレーニングにも似ていますね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月15日 (木)

三年生応援企画 暗記物勉強法③

3.やってはいけない「過去問題で勉強」
 国家試験の勉強というと、いますね。過去問題集を持ち出して片っ端から解いている人。
 あえて言いますが、やってはならない勉強法の一番が「過去問題集での勉強」なのです。

「過去問の何が悪いの」という方。過去問題を解く過程を再現してみましょう。

例「鉄欠乏性貧血の原因で誤っているのはどれか」
①胃がん ②潰瘍性大腸炎 ③子宮筋腫 ④慢性腎不全

 ここで④番を選んだ方、正解です。回答を見て「正解~」と喜んで次の問題へ…。
 ①②③番を選んだ方、正解は④番の慢性腎不全、と確認して次の問題へ…。

 さて、この過程で新しい知識はどれだけ頭に入ったでしょうか。
 正解した場合、新しい知識は全く入っていませんね。間違った場合「慢性腎不全は鉄欠乏性貧血の原因にならない」ことだけが頭に入りました。しかし慢性腎不全ではどんな症状が出るのか、胃がんや潰瘍性大腸炎はなぜ鉄欠乏性貧血の原因になるのか、それどころか「鉄欠乏性貧血とはどういう病気なのか」さえ、確認しないままです。

 二回目で書いたように、知識の定着は理解度に比例します。断片的な知識しか手に入らない過去問は、記憶の定着にとっては最悪の勉強法です。記憶したとしても、部分的な知識しかないので問題が少し変化しただけで解けなくなってしまいます。

「だったら、過去問で間違えたところを教科書で確認して覚えればいい」
 という人。
「覚えているかどうかを確認して、覚えてない部分を勉強しよう」という考えだと思います。しかし過去問を一問解くごとに教科書を開いて、鉄欠乏性貧血や胃がんのページを探し出す時間を考えれば、時間の無駄遣いです。

 過去問題では頭を使いますし、目の前に結果がはっきりと出ますから「勉強した!」という充実感はあります。しかしその充実感には、中身が伴っていません。
 テストで問われるのは、知識量と理解度だけです。いくら努力しても、知識の量が増えないのでは勉強にならないのです。やはり過去問は「勉強前にざっと読んで問題の傾向を知る」ことと「試験直前に解いて、時間配分を覚える」ことに使うのが良いようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月11日 (日)

三年生応援企画 暗記物勉強法②

2. 理解しないと覚えない
 どんなことでもそのまま覚える能力、いわゆる丸暗記の能力は年齢とともに衰えます。これは仕方のないこと。しかし年齢とともに上昇する記憶力もあります。
 それは「新しいことを持っている知識と関連付ける記憶力」です。丸暗記とは逆に、経験が増えるほど上昇し、年齢が上がっても衰えません。
 鍼灸マッサージ学校や柔道整復師の学生なら大抵は20歳を越していますので、丸暗記の能力は期待できません。ならば、この関連づける記憶を使わなければなりません。具体的には記憶したい内容の周辺情報まで見ておくことです。

 例えば「大動脈騎乗」という単語を、覚えたとします。「だいどうみゃくきじょう、だいどうみゃくきじょう」と繰り返して覚えても、具体的なイメージがわかないため、しばらくたてば簡単に忘れてしまいます。

 では、周辺情報がつくとどうでしょうか。
「大動脈騎乗。健康体では、大動脈は心臓の左心室から出て全身に動脈血を運ぶ。しかしこの異常では大動脈が心室中隔をまたぎ、右心室と左心室の両方から出ているので、酸素の少ない静脈血が動脈に混入する。ファロー四徴と呼ばれる先天性心臓疾患の特徴の一つ」
 こうなると、ある程度医学知識のある人ならすぐにイメージがわきます。また「心室中隔をまたいでいるから騎乗か」と、言葉の意味もわかります。こうなると単語だけを覚えるよりもはるかに忘れにくくなります。Kioku

 「覚えることが増えるだけじゃないか」というなかれ。右の図のように、一本の線だけでつながれたものよりも多数の糸でつながれたものの方が記憶の定着もよく、思い出すのも容易です。

 しかも、この知識のネットワークは他の知識を入れるときにも役立ちますから、結果としてはより簡単に多くのことが覚えられます。たとえば、次に「心室中隔欠損」などを覚えるときには、大動脈騎乗で覚えた言葉が記憶を固定する役割を果たしてくれます。
 それに、実際には記憶しようと頑張る必要もありません。理解さえすれば、すでに頭の中にある知識に自然に結びついていきます。

 余談ながら、筋道立てて理解した知識は、将来仕事をする上で必ず役立ちます。治療の方針を立てるにも、新しい手技を考えるにも、持っている知識を元にいくらでも考えを展開できるからです。とくに解剖学と生理学は、治療に欠かせません。臨床医学総論、各論も、患者さんと話をするのに便利に使っています。

 20歳を越した人間が新しいことを覚えようとするには、まず理解することです。というより、理解度がそのまま記憶の定着につながると言っていいでしょう。
 次回はこのことを踏まえて、やってはならない勉強法を。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月 7日 (水)

驚いたので書きたかった

 春からの長雨で庭の梅の木にアブラムシ(アリマキ)が大発生。それを食べるテントウムシも大発生。あちこちにテントウムシの幼虫が這い回り、テントウムシの蛹がくっついています。テントウムシの孵化も、三回見ました。
 この数日は晴天続き、牛乳のスプレー(無農薬農業ではポピュラーな方法)で、アブラムシも激減しましたが。 

 ふと見ると、テントウムシの蛹にテントウムシの幼虫が取り付いています。何をしているのかと目を凝らしてみると、テントウムシの蛹が一部へこんでいます。そのへこみに頭を突っ込んでいる幼虫……どう見ても、食べてる。どう見ても、共食い。いくら餌が減ったからって…。

 テントウムシには、コミカルなイメージを持っていました。肉食だということは知っていても、平和的な奴だと思っていました。それがこんな形で裏切られようとは。
 結婚式で「テントウムシのサンバ」とか歌っていいものだろうか? と、関係のないところまで思いをはせていたところ、
「いいの。結婚は共食いだから」
 と、妻の言葉。一度、結婚観についてきちんと話しておく必要がありそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月 6日 (火)

三年生応援企画 暗記物勉強法①

 世の中には「早く知っておけばよかった」と思うことが多々あります。私にとっては記憶の大脳生理学が、そのひとつでした。
 記憶も脳の機能ですから「上手い方法と下手な方法」があるのです。これを学生時代から知っていれば、受験勉強がどれほど楽だったか…。いや、鍼灸マッサージの学校を受験するときと、国家試験を受けるときに使えたから全くのムダではなかったのですが。
 このブログを読んでいる方の中には、鍼灸マッサージ学校の学生さんもいるのではないでしょうか。鍼灸マッサージの資格試験はほとんど暗記物ですから、暗記のコツを知ると知らないとでは大きな差が出ます。国試を控えた三年生のために、ちょっとした暗記法の紹介です。

1. 記憶は回数
 記憶に関する本には必ず「忘却曲線」というグラフが出てきます。これは、心理学者のヘルマン・エビングハウスが発見した「覚えたことが、どのように記憶から抜けてゆくか」を表したものです。これによれば、どんなに努力して覚えたことでも
「一時間後には50%以上を忘れる。
 一日後には70%以上を忘れる。
 一ヶ月後は80%を忘れ、残るのは20%」
 だそうです。
 
 そこで、忘れた80%をもう一度記憶すると、二回目には36%残ることになります(一回目の20%に加えて80%の二割、16%が残る)。三回目にはほぼ50%、四回目で60%。
 暗記においてもっとも重視しなければならないのは、質よりも量、回数であることがわかります。一回できっちり覚えようとするよりも、大雑把に何度も繰り返す方法が、暗記には向いているわけです(逆に言うと、一年かけて一回だけ教科書を読む、学校の方法は最も効率の悪い方法だといえますね)。

 で、具体的な方法ですが、とにかく教科書や参考書を読むこと。何冊も使うのではなく、一つの科目には一つの本と決めて、そればかり繰り返し読みます。
 記憶の間に、思い出そうとする行為をはさむと、記憶の定着がよくなります。そこで、一つの章を読んだら、本を閉じて読んだばかりの内容を思い出してみます。もちろん、全部思い出せるはずはありません。1分か2分で切り上げ、それからもう一度同じ章を読みます。思い出そうとしたことが刺激になって、良く頭に入ります。
 こうして一つの章を二回読んだら、次の章にかかります。一冊読みきったら、その科目はしばらく置いて、次の科目の本を読みます。

 私は読むのを教科書だけに絞りました。1回目、2回目までは、あまり頭に入った気がしませんでしたが、3回目くらいからなんとなく見覚えが出て、5~6回くらいで自信が出てきました。
 回数が増えるほど記憶に残る部分が増えて、覚えるのが楽になります。また、覚えたところを読み飛ばせるようになるので、一回あたりの所要時間もどんどん短くなり、飛躍的に効率が上がります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月28日 (日)

おからサラダの作り方

 先日、インゲン豆料理の話をしたので、今度は大豆のおからについて。

 おから。卯の花。切らず。
 いろいろな名前はありますが、大豆から豆乳を取った後に残る固形物です。
 この「おから」、実は食物繊維の宝庫です。100グラム中、約10グラムが食物繊維。この数字はゴボウの二倍、ワカメの二倍です。低カロリーで良質のタンパク質も含んでいます。
 おからは、一般的には鍋で炒めて野菜などを刻み込み、醤油で味付けした「卯の花炒り」などの料理で食されます。これはこれで美味しいのですが、今回は簡単に作れてたくさん食べられる「おからサラダ」の作り方をご紹介したいと思います。

1. おからを炒る
 鍋で炒めるのが普通ですが、電子レンジでも十分です。フタ付き容器に入れて1~2分加熱しましょう。熱くなって、湯気が出てきたら終了。

2. マヨネーズを混ぜる
 少し冷めたところで、マヨネーズを混ぜます。おからはジャガイモよりもパサついているので、ついマヨネーズを多く入れたくなります。しかしそれではカロリーが上がって、低カロリーというおからの特徴が生きてきません。マヨネーズだけでなく、ヨーグルトや牛乳を加えて、しっとりさせます。

3.他の材料を加える
 ハム、薄切りキュウリ、さらしタマネギ(炒めても美味しい)、ミックスベジタブルなど、具材を加え、塩コショウで味付けして完成。

 この「おからサラダ」、味わいはポテトサラダとあまり変わりません。しかも、ポテトサラダに比べると、ゆでる手間もつぶす手間もなくて、簡単です。それでカロリー控えめ、食物繊維豊富、ダイエット向けですから、お勧めです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月10日 (水)

インゲン豆の名誉について語る

 TBSが、インゲン豆を使ったダイエットを紹介したところ、嘔吐や下痢が続出して問題になったそうですね。
 しかしこのダイエット法「白インゲン豆を3分ほどいって粉末化し、ご飯にまぶして食べる」そうです。ダイエットの効果があるかはわかりませんが、インゲン豆に対して失礼なことはなはだしいと思うのは、私だけでしょうか。インゲン豆は、本当に美味しい豆なのに。

 日本の豆文化は、大豆に支えられています。納豆、豆腐、湯葉、豆乳、油揚げ…。私はどれも大好きですが、あまりにも大豆ばかりに偏ってはいないでしょうか。もっと多くのおいしい豆があるのに、あまりにも軽視されていると思うのです。その最大のものがインゲン豆。世界的には、料理の材料として幅広く使われている豆です。煮込んで良し、スープに入れて良し、イタリアンのレシピではパスタに入れたりもしています。トルコ料理といえば世界三大料理の一つですが、そこにもクルファスリエというインゲン豆の国民的料理があります(これは簡単に作れて、非常に美味しい)。
 インゲン豆を食べている地方は自殺が少ない気がする、と書いたのはドリアン助川でしたか。

 ところが日本では甘く味付けしたり、白餡にしたりする以外、料理の材料として扱われていません。粉にしてご飯にかけるなどという方法は、料理の仕方を知らないがための、苦し紛れの扱いに思えます。しかもそれで健康を損なうなど、もってのほか。

 どうせ健康のためにインゲン豆を食べるなら、美味しく食べたいですね。煮込み料理などに積極的に使うことをお勧めしたいです。時間をかけて煮るのが面倒なら、輸入物の安い缶詰もあります。インゲン豆を料理に使ったことの無い方々、まずはカレーに入れるところから始めてみてはどうでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月20日 (木)

インドにはガンがない?

 ずいぶん前のことですが「インド人の死因にはガンが少ない」という統計がありました。日本などと比べて、明らかにガン患者が少なかったのです。
「インド人の生活にはガンを防ぐ何かがあるのではないか?」と考えそうになりますね。しかし本当の原因は、当時のインド人平均寿命でした。
 ガンは寿命との関連が深い病気で、歳をとるほど発病率が上がります。したがって、平均寿命が延びた国ほど、ガンは増えます。当時のインド人はガンにならないのではなく、ほとんどの人がガン年齢までに死んでいた、というのが真相です。

 このような台詞を聞いたことがありませんか?
「自然な生活をしていれば病気にならない、野生動物には病気が無いじゃないか」
 たしかに、テレビなどで見る野生動物には、病気をしているものはいないようです。熱を出しているライオンや、咳をしているシマウマなどは、見たことがありません。しかし本当は病気が無いのではありません。病気の動物がいないだけなのです。
 野生の動物は、厳しい生存競争の中にいます。シマウマの群れがライオンに襲われたとき、餌食になるのは足の遅い一頭です。逆にシマウマに追いつけないほど足の遅いライオンは、すぐに飢え死にします。
 病気になると同時に死ぬので、病気の生き物がいないのです。

 治療の世界にも、このような話はあります。ある治療家いわく、
「五十肩の治療例。週2回の治療を20回続けて、痛みが消えた」
治療が効いた、という説明のはずですが。
 週2回の治療を20回ということは、約二ヵ月半の時間が経過しているわけです。五十肩の痛みは普通、ほうっておいても半年から一年で治癒します。特に痛みの強い炎症期は、一、二ヶ月。
 としたら、これは治療が効いたのでしょうか? それとも、自然に治っただけなのでしょうか? なかなか難しい問題ですね。

 事実の一端だけを取り上げて都合よく説明する手法はいくらでもある、という話でした。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年2月27日 (月)

「敏感期」と「臨界期」

 20日放送の「脳を鍛える」で講師の川島隆太氏が、「キレやすい子供が増えているとしたら、何らかの原因で前頭前野の発達が遅れていると考察したい」と話していましたね。前回の記事を書く前に見ておけばよかったです(録画で見るので、遅れ気味)。川島氏は、研究の目的を子供の教育においているとのこと。これから先の研究結果が楽しみです。
 とくに解明してほしいのが「敏感期」と「臨界期」の問題。

 前回書いたモンテッソーリ教育には「敏感期」という言葉がよく出てきます。本来は生物学の用語で、定義によれば、
・ 生物の幼少期に、ある能力を獲得するために
・ 環境中の特定の要素に対して
・ それを捉える感受性が特別に敏感になってくる一定期間である
となっています。(出典後述)
 子供に、何でも舐めたがる時期や何でも運びたがる時期などがあるのはよく知られています。これをモンテッソーリ教育では「発達に必要な敏感期が訪れている」とみなします。ある段階の敏感期にある子供は、ものごとに自主的な興味を示し、簡単に吸収することができます。逆に、敏感期を逃してしまった場合には意図的な努力によって取り返さなければなりません。
 モンテッソーリ教育は「子供は敏感期の助けによって、成長するのにふさわしい対象に興味を持つ」という概念を基礎においています。大人はそれを手助けする役目を持ちます。

 「敏感期」に似た言葉に「臨界期」という言葉があります。これも生物学の用語で、ある能力を身につけるのに適した期間を表します。しかし一般的には「能力を身につけられる年齢の上限」として、絶対音感や外国語教育などでよく使われますね。
 絶対音感では10歳前後がその臨界期で、それを越えると身につけるのは非常に難しくなります。外国語と母国語を同様に使えるようになる臨界期は、9歳前後だそうです。
 これは脳の発達から説明できます。子供の脳細胞は3歳くらいまで成長します。ついで9歳までに必要のない部分を整理して、ほぼ完成に近づくのです。
 臨界期前の教育は脳細胞が整理されるまでの期間に刺激を与え、回路を残そうとするわけですね。

 この二つの概念は「物事を学ぶのに適当な時期がある」という点で共通しています。異なるのは、臨界期が「~歳までに」で表されるのに対し、敏感期が「ある時期に始まり、ある時期に終了する」期間の連続であらわされることです。
 素人考えですが、私は「敏感期」の方に肩入れしたい気分があります。 

 人間の身体は不完全に生まれ、生まれた後にも発達を続けますが、その発達の時期は部分によって異なります(神経系は早く、生殖器系は遅いなど)。人間の脳という複雑な器官の発達にも、このような段階があるのではないでしょうか。  
 最近のことですが、子供の歩行が早すぎるのは良くないのでは、という説がでてきました。歩行を始める前に、一定以上の「這い這いの期間」が必要だというのです。この考えは治療的にも使われ、発達になんらかの問題を抱えた子供に、這い這いのやり直しをさせることなども行われています。

 臨界期の概念は「早ければ早いほど良い」という幼児教育に結びつきやすい面があります。しかし、幼児期に特定の訓練に集中させることによって、正常な成長に必要な段階を飛ばしてしまう可能性が否定できないのです。このあたりは、もっと研究が進まなければはっきりしないとは思いますが。

 ピアノなどの分野では技術競争が高度になりすぎて、ごく幼いうちに訓練を始めなければ間に合わないと言う話も聞きます。
 何が良くて、何が良くないのか。まだ結論は出せません。

付記
 モンテッソーリ教育に興味を持った方は「ママ、ひとりでするのを手伝ってね!」(相良敦子著 講談社)を読まれることをお勧めします。上記の定義はこの本から引用しました。
 教育方法としても価値がありますが、それ以上に子供への視点を変える力があります。少なくとも私は、この本を読んだあとでは、姪たちを見る目に余裕ができたと感じました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月22日 (水)

手作業が人格を育てる

 現在NHKで月曜日の夜に放送している「知るを楽しむ・脳を鍛える」は、認知症(痴呆症)予防の観点から「脳を鍛える方法」を紹介しています。脳血流の変化を調べるなど実証的な方法を用いることで面白い番組に仕上がっています。
 先日の第二回放送では、三つの脳活性化のポイントが紹介されていました。
・ 読み・書き・計算
・ コミュニケーション(人とのふれあい)
・ 手を使って何かを作ること(料理、工作など)

 このポイントを重視して訓練すると脳の前頭前野を活性化することができるとか。とくに手を使って何かを作ることには、大きな意味があるようです。

 前頭前野は「人間らしさの脳」といわれる部分で、記憶や感情の制御、行動の抑制など、さまざまな高度な精神活動を司っています。日常の生活にも、社会で活躍するにも、豊かな人間関係を築くのにも欠かせません。その前頭前野の機能が手を使うことと密接に関わっているわけです。

 人格の発達と、手の関連性。
 似た話を聞いたなあ、と考えて思い出したのは、幼児教育として有名な「モンテッソーリ教育」でした。

 モンテッソーリ教育は、20世紀始めにマリア・モンテッソーリという医師によって始められた幼児教育の方法です。子供を「遊ぶ存在」ではなく「自らを育てるために、仕事をする存在」と考えます。例えば、子供がいろいろなものに興味を示し、なんでもやってみたがるのは、自分を育てるための訓練機会を探しているからだと考えるわけです。
 なかでも重視されるのが、手を使う作業です。並べる、切る、折る、皮を剥くなどの作業を繰り返し行い、習熟してゆくことによって子供の心身は発達し、知能や人格形成が順調に行われるとしています。逆に、手を使う機会がなかった子供の精神は未熟な場合が多いとのこと。
 そのため日常生活を通して、また教材を通して、手を使う機会を与えることに重点を置いています。

 上記、NHK「脳を鍛える」で紹介されていた実験は、手を使う作業が「人間らしさの脳」を活性化することを証明しています。これは間接的に「手を使う作業が人格形成に役立つ」ことの根拠を示したとも言えないでしょうか。
 モンテッソーリ教育は、子供の観察から生まれた教育方法です。それが脳科学の観点から証明されつつあることは面白いと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月15日 (水)

男ロボットはモテない

 男がロボット女性と歩くところは想像できても、逆は想像しにくいという妻の言葉。確かに物語や映画でも、カップルは大抵、男が人間です。

 前回書いた異類婚の物語には、パターンがあります。男-人間で女-異類の子供は普通の人間として生まれ、場合によっては普通の人間よりも優秀です(安倍清明も、母親は狐だったという伝承があります)。逆に男-異類で女-人間の子供は、人間として生まれてこないことが多いのです(蛇の卵を産んだ娘の話など。マンガの犬夜叉もそうでしたっけ?)。
 これは男性優位思想の表われとも受けとれます。どこの馬の骨とも知れない男の子供は認めない、という男の血筋重視。
 物語に「人間の女とロボット」のカップルが出てこないのも、潜在的な男尊女卑の考えがあるのかもしれません。人間とロボットの組み合わせでは主導権を持つのは人間の側。それで人間が男でなければという考えが出てくるわけですね。

 もっとも妻が言ったのはそういう意味ではなく。女性は自分のパートナーにロボットを選ばないと思う、というのです。

 何年か前に「異性に恋愛感情を持つきっかけは何?」というアンケートを見ました。「親しみ」や「話題が合うこと」などの回答は男女とも共通していましたが、共通しない項目が一つありました。
 それは「尊敬」。しかも女性の回答では一位でした。尊敬から恋愛に至る率が最も高いのです。
 人間はロボットに共感したり親しみを持ったりすることはできても、尊敬だけはできません。ロボットのもつあらゆる能力、性格がプログラムによるものだとわかるからです。
 女性はロボットを尊敬しない→恋愛感情を持たない→人間の女性とロボットのカップルは成立しない、という三段論法は許されるでしょうか。

 そういえば妻の理想的男性像は懐かしいハウス名作劇場「不思議の島のフローネ」の、お父さんだそうです(30代以上の方、笑ってください)。医者である上、サバイバルの知識もあり家族を守り抜くたくましさの持ち主。確かに尊敬に値する人物像でした。
 彼女、実際の結婚については妥協したわけですが…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月10日 (金)

ロボ女房

 「鶴女房」など、人間以外の動物と人間が結婚する昔話はたくさんありますね。民俗学的には「異類婚」と呼びます。この種の物語はアニミズム(あらゆるモノに魂が宿るという思想)の文化圏では多く見られ、キリスト教などの一神教文化圏ではあまり見られないそうです。
 日本人は「八百万の神々」を抱えるアニミズム文化圏ですから、異類婚には寛容なはず。人型ロボットができて、それなりの会話ができるようになったら「ロボットと恋愛・結婚」を望む人が出てくると思います。

 携帯電話やメール、チャットの流行をとりあげて「現代人はコミュニケーションを求めている」と言われることがあります。しかし、これらのツールには共通する特徴があります。それは「自分がコミュニケーションしたいときだけコミュニケーションできる」ことです。
 顔と顔をあわせるコミュニケーションには、制約が付きまといます。時間を共有する必要がありますし、好きなことだけ話してはいられません。会話の途中で逃げることも不可能です。
 便利なツールの流行は、人間関係においても便利さが重視されていることを表していないでしょうか。

 高度なコミュニケーションを求めるなら、コンピュータは人間には勝てないでしょう。しかし会話に便利さを求め始めたら、人間はコンピュータには勝てません。コンピュータは全面的に人間にあわせてプログラムされるのですから。
 さらにいえばコンピュータでは、性格を作ることが可能です。例えば「几帳面」は細かいところが気になる性格ですから「おおらか」とは共存しにくいものです。しかしプログラムなら「几帳面でおおらか」というような都合のいい人格も作りだせます。

 ロボットがもう少し進歩したら、便利なロボットをパートナーに選ぶ人が必ず出てくるはずです。顔デザイナー、性格デザイナーといった職業もでき、容姿や人格も商品として消費されるものになるでしょう。そのとき、人間と人間との関わりはさらに薄くなるかもしれません。

 こんな話をしていたら、妻が言いました。
「男性が女性型のロボットを連れて歩くのは想像できる。でも女性が男性型のロボットを連れて歩くの想像できない。どうして?」
 言われてみれば、確かに想像できません。
 物語でも、人間とロボットがペアになるときには、男が人間・女がロボットの場合が圧倒的に多いのです。これはまた新たな問題ですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月 2日 (木)

「不気味の谷」の前後

 「不気味の谷」という言葉をご存知でしょうか。
 人間は、人間型をしたものに親しみを感じる傾向があります。箱に腕がついたような工業用ロボットに親しみを覚える人はいませんが、二足歩行など人間型に近づくと親しみが増してきます。では、もっと人間に近づいたらどうなるのか?
 人間の心理は面白いもので、人間に似過ぎたロボットの顔は、似ていない場合よりも不気味に感じるそうです。日本人形やアンティークドールなどの精密な人形に感じる不気味さと同様のものでしょう。

 親しみの度合いをグラフにすると、途中まで緩やかに上昇したグラフがある地点で急激に落ち込みます。この落ち込みをロボット博士の森政弘博士が名づけたのが「不気味の谷」という言葉です。不気味の谷を越えて人間に近づくと、また親しみも回復するので、中途半端に似ているのが一番まずい、ということでしょうか。

 「アップルシード」という3D-CGアニメのプロモーションビデオを見たとき、なんともいえない気持ち悪さを感じたのを覚えています。このアニメはモーションキャプチャーという技法を使っていました。人間の動きを記録し、それに合わせてCGキャラクターを動かすので、かなりリアルな動きができます。ところが、この動きがなんとも気持ち悪いのです。重力がねじれた空間を見ているような…。
 思い出してみれば、昔なつかしアニメの「トムとジェリー」の動きは、かなり不自然なのに違和感を感じませんでした。
 人間は認識しやすい大きな違和感よりも、ごく微妙な違和感の方を気持ち悪く感じるのかもしれません。人間型にして親しみを持たせるには、本当に細部まで作りこんだ、人間らしさが必要になるでしょう。

 としたら、将来のロボット開発の方向性は二つに分かれることになりそうですね。あくまで不気味の谷を越えようとするか、谷の手前で止まるか。科学者は人間に近づける方を選ぶでしょうね。不可能に挑むのが科学者魂。
 しかし実用化を考えれば、作りやすくて自由度の高い「谷の手前」製品が幅を利かせることになりそうな気がします。表情や動作が少しくらいズレていても愛嬌にできますし、デザインも多様にできますしね。さまざまな製品が出そうです。文字通りのロボット型だったり、ネコ型だったり、アニメやマンガのキャラクター(登場人物)に似せてみたり。
 考えてみればアニメやマンガのキャラクターは、人間を元にデフォルメを加えた、似て非なるデザインですね。あのあたりが「不気味の谷」の手前で止まる、落としどころかもしれません。 

付記(2007年4月23日)
日経ビジネスオンラインの川口盛之助の「ニッポン的ものづくりの起源」で、同じような考えを、さらに推し進めた面白い記事がありました。本当の人間から離れることで、さらに魅力的になることに成功しているマネキンをとりあげています。さらに、将来的なロボットの理想的な動き方についても言及しています。ぜひご一読を。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20070419/123159/?P=1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月29日 (日)

人工知能とゲーム

 20世紀半ば、天才数学者と呼ばれたアラン・チューリングは、チューリングテストと呼ばれる人工知能のテストを考案しました。人間が人工知能と文字で会話を交わし(チャットですね)、人工知能を人間と誤認したら、人間並みになったと判定するものです。
 このように人間並みに思考するコンピュータは、まだまだ夢の彼方にあります。完成にはコンピュータのさらなる進歩が必要ですし、少し違う視点も必要かもしれません。

 年末のことですが、NHKの「日本の現場・秋葉原」という番組で、一人の女性が「サクラ大戦っていうゲーム、ゲームなのに会話がリアルで…」と語っていました。
 「サクラ大戦」は戦闘に人間関係を加えたゲームで、戦闘シーンと日常生活シーンを交互に繰り返す構成になっています。日常生活のシーンでは隊員の女性たちや上司と会話をし、コミュニケーションを図ることが目的になります。傷つけたり怒らせたりすると隊員はやる気をなくし、戦闘時に実力を発揮することができません。
 私がこのゲームをしたときにも、やはりゲーム中の会話が自然な流れを持っていると思いました。
 会話は三択から選ぶだけ。もちろんゲームマシンは思考していませんし、プログラムされた言葉を表示するにすぎないのですが。

 会話する人工知能の製作が難しいのは、人間の会話が多彩すぎるからです。話題はころころ変わりますし、同じ言葉でも人によって受け取り方が違います。人工知能には多くの話題を持たせ、不測の事態にも対応できる設定をしなければなりません。
 逆に「銀行のATMと客のインタフェース」など、用途が限られている場合は会話内容も限られているので簡単です(ほとんど実用化していますね)。これが、ゲームにも言えると思うのです。

 ゲームでは物語の舞台や人間関係、性格などが厳密に設定され、会話の形式を限定します。またストーリー中のイベント(事件)が話題を限定します。
 例えば「大事件のあと、仲間が黙り込んでいる」などという状況で、人間の思いつく会話のパターンは限られています。ゲームではそのような状況を意図的に作り出し、状況から予想される限られたパターンをプログラムすることで、自然な会話の流れを演出しているのです。
 プレイヤーの心理をうまく方向付けることで、会話にリアリティを持たせているわけですね。

 人間並みに思考するコンピュータは難しいとしても、人間と会話するだけのコンピュータなら、ハードルはもう少し低いのではないでしょうか。ある程度の機械の発達と、人間心理の研究が進めば、近い将来に実現しそうにも思います。
 人間の生活について、社会について、いろいろ面白い変化が起こるのを期待しているのですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月26日 (木)

変化する技術

 治療中、患者さんによく言われることのひとつが「前と揉み方が違うね」です。
 実際そのとおりで、私の治療はよく変わります。といって、好きで変えているわけではないのですけど。

 どんな仕事でもそうですが、よく使う感覚は発達します。料理人は味や匂いに敏感になりますし、印刷屋さんは色について普通の人以上の感覚を持っています。
 マッサージの場合は、触覚や自分の指先を操作する感覚が変化してゆきます。感覚が変われば、わからなかった不調や治療のポイントが見えて、それまでの自分の治療が不十分だと思い知らされるのです。
 不十分だとわかれば、変わらざるをえません。

 こういう姿勢は、古武術を習っていた時の師匠から受けついだ気がします。
 その道場では、あることを習って一週間後に行くと「こんな変化がありましてね」と言って、まったく違う技を教えられました。ときどきは「今、思いついたのですが」と言って、その場で新しい技が出てきたり。
 守りに入らないというか、変化することを恐れないというか、ひとところにとどまらないのですね。最初はその変化に戸惑いましたが、慣れてくると変化を楽しめるようになりました。
 引っ越してしまうまで三年半、通いました。技はあまり上達しませんでしたが、変化を当たり前だと思う姿勢だけは、しっかり身体にしみこんだようです。

 正直なところ、マッサージの技術がころころ変わるのは、来てくださる方に申し訳ないとも思います。いつも同じ安心感、というのもあると思いますから。
 しかし、仕事をしている限り感覚は変わりますし、感覚が変われば治療も変わります。そもそも、発展途上の人間が変化を嫌ってもしかたありませんし。
 一生懸命にやっている限りは変化するのだ、と開き直るしかないようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月22日 (日)

育児書が作る時代

 一昔前の育児書では、子供を抱かないのが一つのルールでした。泣いていてもかまわず、勝手に泣き止むのを待つ。そうやって、子供に自立心を持たせようと考えていました。

 このような育児の方法は、今では否定されています。抱かないこと、かまわないことはコミュニケーション能力の発達を阻害し、人間に対する不信感を抱かせる、ということで。十分に甘え、安心感を持ったことが、本当の自立心を芽生えさせる土台になると考えるのです。
 もちろん、この手の問題は一概に正解出せるものではありませんが、個人的には最近の説の方が正しそうな気がします。

 育児書のことを考えて思うのは、各時代で正しいとされる育て方があること。そして育て方が人間に影響することです。
 ということは、ある時代に大流行した育児書があれば、その時代に生まれた子供には一定の傾向が生まれるはず。
 シラケ世代だの、キレる世代だの、世代ごとの性格には、育児書の影響があるかもしれないのですよ。
 どなたか、そういう研究をしてませんかね?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月12日 (木)

私の頭は固かった…メイド喫茶にて

 先日、友人に連れられて「メイド喫茶」へ行ってきました。
 メイド喫茶は、名前のとおり喫茶店です。値段も普通、サービスも普通。ただ普通の喫茶店と違うのは、ウェイトレスがメイドさんの格好をしていることだけ。
 それが大流行して、いまや全国に広がりつつあります。一応、流行ものは見ておこうと思ったわけで。

 メイド喫茶の特徴の一つに、挨拶があります。普通の喫茶店では、客が入ってくると「いらっしゃいませ!」という声がかかりますね。
 ところがメイド喫茶では「おかえりなさいませ!」と声がかかります。ウェイトレスがメイドなら、客は主人。したがって初来店の客でも「おかえりなさい」になるわけです。このシステムは、以前から知っていました。むしろ、その決まり文句を聞くのを楽しみにしていたといってもいいでしょう。
 ところが、思いがけないことが起こりました。
 満面の笑みをたたえたメイドさんが「おかえりなさいませ!」と口にした瞬間、強烈な違和感に襲われたのです。思わず逃げ腰になるくらい。
 それから席に案内されて、水とお絞り、満面の笑み。またしても金縛り。ちょっとした混乱です。

 あの挨拶と笑顔が、私を混乱させているのは間違いありません。体勢を立て直して考えてみました。
 思いついたのは、公私の使い分けでした。
 普通「おかえりなさい」という挨拶は、家族や親しい人にするものですね。業務用でない笑顔も、親しい人間にだけ見せるものです。このような言葉や笑顔を親しい人間から投げかけられれば、こちらも同じように親密な言葉や笑顔を返します。
 逆に、普通の喫茶店に入って普通の挨拶をされれば、社交辞令の挨拶を返します。私たちは、相手によって公私の顔を使い分けているわけですね。

 ところが、メイド喫茶ではその使い分けが崩されます。私の本能は、メイドさんの親しげな言葉と笑顔に、親しげな言葉と笑顔を返そうとします。ところが目の前にいるのは、見ず知らずの人。社交辞令の自分が顔を出そうとします。どちらの自分を出していいのかわからない混乱が、違和感につながったようです。

 メイド喫茶はディズニーランドと同じく、ロールプレイ(役割を演じること)を楽しむ場所だといったのは、経済アナリストの森永卓郎氏でした(「萌えるアキバが日本を変える」http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/ 「ビジネストレンド」のコラム)。
 柔軟にメイド喫茶のロールプレイに入っていける人では、このような混乱は起こさないでしょう(どこまでもマイペースな人も)。どうも私はすぐに適応できないほど頭が固かったようです。

 混乱は時間とともに治まり、最後は普通の喫茶店と同じように食事を楽しむことができましたが、もうちょっと適応力を鍛えようと思った体験でした。
 まあ、こんなことをわざわざ分析してるあたり、頭が固いんでしょうねえ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月 8日 (日)

ストレス保存の法則

 昔、友人が「ストレス保存の法則」というのを教えてくれました。
 例えば、ある学生が先生に怒鳴られたとします。その人はストレスを感じて、後輩や友人に八つ当たりしてストレスを解消、ストレスは当たられた人に移動します。
 つまり「最初の人が感じたストレスは、八つ当たりによって何人かに分散されるが、その総量は変わらない」という法則です。

 人から人への法則は冗談ですが、個人の身体のことになると、この法則が生きてきます。
 緊張したときに、ぐっと手を握り締める人は多いでしょう。人間は精神的なストレスを感じたとき、身体の一部に力を入れて、ストレスを緩和しようとする性質があります。手の他に、歯を食いしばるケース、肩に力を入れるケースなどもあり、肩こりの原因になります。
 
 さらに言えば、継続的なストレスにさらされている人の場合は、身体全体が固くなっているように思われます。文字通り、ストレスから身を守る鎧のようになっています。
 臨床経験から言えば、このような場合のコリは緊張が強く、張り詰めた感触があります(比較して言えば、一時的な疲れによるものは筋肉痛に近い腫れた感じがしますし、長引いたコリは固く縮んで柔軟性がありません)。
 小学生の時からひどく肩こりがする子供などは、極端な運動不足でもない限りは、大きなストレスを抱えている可能性があり、注意が必要です。

 最近では、ストレスは腰痛の主原因の一つにも数えられるようになっています。ストレスを我慢することが腰の筋肉に負担をかけ、腰痛を起こすというのです。
 ちなみに、文章を書くことで痛みを治療しようという治療法もあります。自分の過去を振り返り、つらかった思い出などをノートに書き出すのです。言葉に出すことでストレスを軽減し、痛みを減らすという仕組みですね。効き目にはかなり個人差があるようですが「効く人には効く」そうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月 4日 (水)

健康診断プレゼントは?

 お歳暮のギフト券というのがありますね。直接、物を贈る代わりに、商品券を贈るわけです。いろいろあります。買い物ができたり、ビールが買えたり、旅行に行けたり。
 ならいっそ、人間ドッグの商品券というのは駄目でしょうか?
 健康診断は、行かなくてはならないと思っていても、なかなか行けないもの。会社員はともかく、自営業や定年退職者は、あまり行かない人が多いのではないかと思います。しかし商品券をもらってしまえば「もったいない」気分で、健康診断に行く人も増えるはず。

 健康診断商品券のいいところは、値段に応じたランク付けができるところですね。昔の上司や、ちょっとお世話になった方には、レントゲンと血液検査くらいの「お手軽コース」。もう少しランクを上げると、胃カメラやエコー検査が入ったりして。
 父の日、母の日には、
「長生きしてほしいご両親に … 真心こめて総合検診コース」
 というのも愛情にあふれたいい贈り物ではないかと。もちろん、結婚記念日にもいいですね。
「銀婚式…いつまでも一緒の二人に、PET付きコース新設。ペア割引サービス」

 どうでしょう、病院の経営者の方々?


PET…Positron Emission Tomography。ガン検査の一種で、ものすごく高価な検査。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年12月14日 (水)

1/fゆらぎは人間関係にも?

 人間にとって、もっとも気持ちがいい状態、それが1/fゆらぎ(エフぶんのいちゆらぎ)といわれるものです。エアコンや、ヒーリングミュージックでよく使われる言葉ですね。
 私たちの身の回りにあるものは、気温や音、風の強さまで、常に変化し続けています。その変化を表す言葉が「ゆらぎ」です。1/fゆらぎのほかに「fゆらぎ」「1/f2ゆらぎ」(エフにじょうぶんのいちゆらぎ)という言葉があります。

 fゆらぎというのは、全く不規則に変化する状態です。音であれば、低い音の後でいきなり高い音が出たり、急に小さい音になったかと思えば大音響がとどろく、というように、まったく予測のつかない状態を表しています。この状態で安らぎを感じるのは難しいでしょう。
 逆に、1/f2ゆらぎは規則的に変化が起こる状態です。高、低、高、低、高、低、高…などのように、いつまでも同じ調子が続きます。これも聞いている身としては退屈しますし、長く続くと苦痛になってきます。

 では、1/fゆらぎは? これは「ある一定の範囲内で、不規則な変化が起こる状態」を示しています。よく例に挙げられるのが、小川のせせらぎや雨だれの音です。音の大きさや質が極端に変化することはありませんが、ちょっとした水量の違いなどで不規則に音が変化します。この「安定の中にある意外性」が人間にとっては最も心地よいらしいのです。
 面白いことに、健康な人間の心拍も1/fゆらぎで変化しているとのこと。安静時でも一定のリズムではなく、わずかに速くなったり遅くなったりしているそうです。それがメトロノームのように一定のリズムを刻む場合には、身体に大きな不調があると考えられます(現在、この心拍を健康診断に役立てる研究がなされています)。

 この1/fゆらぎ、人間関係にも言えるのではないかと思うのですが、どうでしょう?
 何をするかわからない人を見ているときには、イライラしたり、腹を立てたりします。逆にいつも同じことばかり話していたり、決まりきったことしかしない人を見ていると、退屈になってきますね。
 無茶なこと、嫌なことはしない。しかし思いもしないところでちょっとした意外性を見つけたりする。そういう1/fゆらぎの人を見ているとき、人は最も安心する、という説はどうでしょうか? 

 まあ「彼は何を考えているの? わからなくてドキドキ」とか、そういう楽しみもあるかもしれないですけど……。
 忘れましたねえ。遠い昔の話じゃて。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月19日 (水)

英語が聞けない、話せない…

 また、日本語と英語の話ですが。
 日本語で使われる音節(母音と子音でできる音の最低単位)、いくつくらいあると思いますか? あいうえおの50音、が行やば行などの、にごり音。きゃ、きゅ、きょなどの音…。
 諸説ありますが、母音が5、半母音が2、子音が16の計23個、音節が110個前後だそうです(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)。
 では英語で使う音は?
 英語の場合には母音が20、子音が24の計44個、一つの母音に複数の子音をつけることもあるので、音節は数千に上るとさえ言われています。いったい、日本語の何倍の音があるのでしょうか。

 「ダーリンの頭ン中」(小栗左多里)というマンガがあります。日本人の作者と、外国人の夫(イタリア人とハンガリー人の間に生まれ、アメリカで教育を受けた)との会話を描いた作品なのですが、この夫が大の語学好き。いろんな言語に通じています。日本語は一つの音に一つの文字、という作者に、彼が言います。
 「『するめです』って、言ってみて。…いま、するめの『す』と、ですの『す』は、違う発音したでしょ?」
 最初の「す」はUが発音されていて、終わりの「す」は、息の抜ける音なので、よく聞いてみると、確かに違う音です。マンガはこのあと「日本語も十分複雑な発音をしているから『外国語は発音が難しい』と壁をつくらないで」と続いていきます。
 しかし私は、この二つの音が別の音に聞こえるという外国人の耳に、よけいに壁を感じてしまいました。一般の日本人なら、この二つの音を区別して考えたことなどないと思います。

 英語の音節が数千もあって、日本語が百そこそこということは、日本語よりも音の区別が細かいということ。
 思い出せば、中学校の英語の時間。Rの音とLの音、Bの音とVの音の区別がわかりませんでした。同じような音なのに、なんで区別するんだろう、と考えてたのですが、ネイティブにとっては明確にちがう音なのですね。日本人が「さ」と「た」を間違わないのと同じ。分類の引き出しが少ない日本人だから、同じように聞こえるだけなのです。

 日本人は何年も英語を習っているのに話せない、といわれます。引っ込み思案とか教育が悪いとか言う前に、この音に対する認識が問題ではないかと思うのですが、どうでしょうか。
 耳慣れない音ばかりだから聞き取れない、聞き取れないから当然発音はできない。だから話せない。そう考えると、まず耳を鍛える方法を考えることが、何より重要になる気がします。

 「ダーリンの頭ン中」は、面白い本なので、お薦めです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月13日 (木)

好き嫌いは性格の歪み?

 一昔前「食べ物の好き嫌いがある人は性格に歪みがあるのだ」と、書いている人がいて、無茶なことを言うなあ、と思いました。
 しかし最近、ありえない話ではないと考えるようになりました。ちょっと「大風が吹けば桶屋が儲かる」に似た話ではあるのですが、お付き合いください。

 味覚には、本能的な味覚と、社会的な味覚があります。
 本能的な味覚とは、遺伝子に刻み込まれた味覚です。人間が採取生活を送っていたころ、味覚は食べ物を探すための重要な要素でした。そのため「この味を食べれば生きられる、この味を食べたら危険」という判断が、本能に入っています。
 たとえば肉の旨味や、砂糖の甘味は、本能的味覚では好ましい味にあたります。肉の旨味はアミノ酸、身体に必要なたんぱく質の味です。甘味は糖分ですから、カロリーの元、炭水化物の存在を示しています。油脂分も炭水化物と同様。菓子の多くが砂糖と油脂を使っているのは、偶然ではありません。
 では、他の味覚はどうでしょうか。ピーマンやゴーヤ(ニガウリ)のような苦味、お茶のような渋みは、毒草に多い味です。強力な酸味は、腐敗を意味しますし、唐辛子の舌を刺す辛さにいたっては、そのまま凶器ですね。いずれにしても危険に直結しており、不用意に食べていい味ではありません。人間の本能は、これらの味を警戒します。

 これらの味覚をおいしいと感じられるようになるのは、社会的な訓練のおかげです。周囲の人がおいしそうに食べているものを、まねして食べる。食べなさいと勧められて食べる。そのような積み重ねによって、味覚が広がってゆくのです。回りの人から影響をうけてできあがる、このような味覚は「社会的味覚」と呼ぶことができるでしょう。

 そう考えると、好き嫌いが少ないということは、人がおいしそうに食べるのを見てきたということ。また食べることについて、しつけを受けてきているということを示します。それが、同じく人とのふれあいで形成される人格と相関関係をもつことは、十分に有り得る話です。つまり、
「好き嫌いがない」 → 
「食事についての訓練を受けている」 →
「教育、しつけも受けているはず」 →
「人間関係を築く能力があるだろう」
 という四段論法によって、最初の仮説がでてくるのでしょうね。

 まあ、どこまであてになるかと聞かれたら困るのですが。単に食いしん坊な人、好奇心旺盛な人は、とくに訓練されなくても好き嫌いが減ってゆく傾向にあるわけですし。
 第一、それが事実なら、私は性格円満なはずですしねえ…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月 9日 (日)

どこまでが人格なのか

 人体における心の影響は、よく知られています。ストレスが消化器や循環器に悪影響を与えるケースなどがその代表例ですね。東洋医学でも、感情の動きを「内因」と呼んで、病気の重要な原因と考えています。
 心が変われば体が変わる、ということには一定の科学的根拠があります。心理的な問題が身体に異常な緊張を作り、それが害を及ぼすケース。交感神経優位の状態が長く続くことで免疫力が落ちてしまうケース。しかし、それ以上の可能性を感じさせる出来事を、テレビで見ました。

 紹介されていたのは、多重人格症の患者でした。初老の女性ですが、彼女の中にはいくつもの人格が存在しています。その中に3歳の少女の人格があったのですが、その人格になったとたん、彼女はメガネを外してしまいました。
 もともとの彼女は強い近視で、メガネなしでは、日常生活も難しいほどです。ところが人格が変わると視力が回復してしまったのです。テレビカメラの前、スーパーに買い物に出かけた彼女は、ニコニコしながらお菓子を選んでいました。
 一般的には、ある程度進んだ近眼は、治らないものと考えられています。しかし、それすらも人格が変化すると治ってしまう…。ある意味、近視も心が作り出していたといえませんか?

 逆に言うと、近視のような身体のことまで、人格なのですね。
 私たちが人格というとき、性格とか考え方とか、心の方面だけを考えることが多いです。しかし本当はそれだけでなく、手足の動きや内臓まで、生きている人間のまるごとすべてが「人格」なのかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月 6日 (木)

「ちょっと速読」のススメ

 速読術という言葉がマスコミに登場するようになって、もはや十数年になります。私は、そのころ速読術を学んだ一人です。
 学んだ当時、「こんなに簡単で便利なものなら、すぐに普及するに違いない」と思っていたのですが、いまだに普及する気配がありません。「速読術を身につけるのは大変だ」という誤解があるようです。

 速読術というと、本一冊を一分で読むような超速読を連想しがちです。たしかに、この手の「右脳開発型」の速読は、身につけるのに非常な努力が必要ですし、素質に左右される部分も多々あります。

 しかし普段の読み方を速めるだけの「簡易型」の速読は、それほど難しくありません。読書速度を2~3倍にする程度なら、一日五分くらいの訓練を1~2週間もすれば、身についてしまいます。私が学んだのも、このタイプの速読です。
 私の速度はだいたい一分間に2000~2500字程度、文庫本で3ページくらいです。これでも平均的日本人の5~6倍にあたるとのこと。超速読に比べればたいしたことはありませんが、習得にかかる時間・手間が少ないことを考えると、悪くないと思います。鍼灸マッサージの国家試験では、ずいぶん重宝しました。 

 練習方法は「速さに眼を慣らす」ことに尽きます。
 具体的には、猛スピードで文字を見ること。 目の前に現れては消えていく文字を見ているうちに、脳はそれを読み取ろうとして、駆け足状態になります。そのうち、その速度に慣れて読書速度があがるわけです。

 私が学んだ「ジョイント式速読」の本では、本のページをぱらぱらめくり、それを眺めるという練習方法が紹介されていました。しかし実際の訓練は、本を使うよりも速読練習ソフトウェアなどを使うほうが簡単です。とりあえず、無料で使えるページを二つ、紹介しておきます。
・電遊社「速読教室」体験版
http://www.denyu-sha.co.jp/product/notr/sokudoku.html
 速読ソフトの、初級編を体験することができます。
 このソフトは、本編を購入して姪に使わせてみました。一ヶ月かからずに分速2000字を越えましたから、それなりに有効だと思います。テキストの種類が少ないのが不満です。

・「無料で速読トレーニング」
http://www.servicemall.jp/sokudoku/
 名作を、高速で表示してくれるホームページです。メールマガジンの登録もやっています。

 最後に、練習のコツを二つ。
 一つは、「自分の読めない速さ」で練習すること。つい、全部を読みとれる速度にしたくなりますが、それでは脳が急ぎません。自分の読める速度の倍以上の速度で練習することをお勧めします。
 もう一つは、自分の読書速度を計っておくこと。読書速度は、速くなっても意外と実感がないものです(時計を見て「あ、意外に速い」と感じる性質のもの)。速度を計っておくと、自分の成長が実感できて、やる気が出ます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月 3日 (月)

トイレットペーパーの転職

 冷蔵庫の脱臭活性炭、みなさんご存知だと思います。なんで活性炭で臭いが取れるかというと、木炭には微細な穴がたくさんあるから。穴で表面積が広くなる分、ニオイがくっつくところがたくさんあるわけですね。表面積が広ければいいのなら、木の繊維を薄く延ばして、まとめたものでもいいはず。

 …トイレットペーパーはどうでしょう? 手軽で、安くて、ニオイ吸着後はトイレで使用すれば無駄にならない。これは立派なエコロジーではないでしょうか?
 ということで先日、試してみました。湿らないように皿にのせて、冷蔵庫の奥へ。放置すること二週間。

 結論からいうと、トイレットペーパーも冷蔵庫のニオイを吸着してくれます。特にロールの断面が見えている部分は、隙間が多い分強力です。実験は成功。しかしながら、二週間で終了しました。
 何が悪かったかというと、見た目が悪かったとしか言いようがないですね。ビールの横にトイレットペーパー。牛焼肉用薄切りの横にトイレットペーパー。ケーキの横にトイレットペーパー。
 場違いです。しかも、けっこう場所をとるし。そんなわけで、そういう状況が気にならない方だけ、お試しください。

 最後に一つ。トイレに持ち込んだとき、ロールが回転するたびに冷蔵庫のニオイが飛び出してきます。どれだけ多くのニオイを吸着していたか、吸着剤としての優秀さをたっぷり思い知らせてくれました…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月26日 (月)

擬音の日本語、比喩の英語

 こういう話を一度書き出すと、普段から気になっていたことが一気に出てきますね。関係なくても下らなくても、気になることは気になるもの。
 ということで、日本語と英語の話、続きです。

 前回書いた「日本語は音と文字の関係が深い」という特性は、日本語に擬音が多いことの原因にもなっているかもしれません。聞いた(感じた)音をそのまま文字にするわけですから。

 インターネットで、面白いページを見つけました。
「言の葉」(http://mariyot.ld.infoseek.co.jp/index.htm)の中の、
「擬声語、擬態語」(http://mariyot.ld.infoseek.co.jp/onomatope.htm
モンゴル語を中心として、言葉を扱っているサイトです。その中の一部に、日本語と英語の表現を比較した文章がありました。
 例えば、英語では日本語で言う「匂い・香り」を表すのに、aroma、flavor、perfume、など、10もの単語があるというのです。その他、泣く、歩くなどもいくつもの単語で表現されています。日本語にはそれだけの単語がなく、代わりに多彩な擬音で補っているということでした。

 なんとなく、表現方針の違いのようなものを感じますね。
 日本語の場合は、基本になる単語は少なく、修飾のバリエーションが多い。しかも専用の擬音があったりします(「さめざめ」「めそめそ」などというのは「泣き専用」ですね)。擬音という簡便な修飾方法が、こういう使い分けを生んだのかもしれません。
 英語の場合は、単語の段階で細かく分類しています。修飾は一般的な単語を流用し、数は少なめ。

 イギリス民謡「アニーローリー」の歌詞では、少女の姿を表現するのに、
 「星のごとき瞳」「うなじは雪のごとく」といった表現が出てきます。日本人であれば、口にするだけで照れてしまいそうですね。しかし、多用されているところを見ると、本人たちにとっては、とくに大げさではないようです。修飾語が少ない言語のために、日本人よりも気軽に比喩を使う文化が育ったのかもしれません。
 ワインの品評などで出てくる、
「バラの香を中心に、柑橘系の、レモンに似た香が…」
 などという表現も、その延長上のものなのかもしれません。

 …ここまで考えて、ならば日本酒の品評には擬音が多いのではないか、と考えてみました。ところが。
 擬音は思ったよりも少なく、比喩も「キャラメル臭」「ワインのような口当たり」など、いくつかのケースをのぞいて使われていません。その代わり、
「軽い」「奥行きがある」「まるい」「やわらかい」「角がある」etc.
 なんだか、形のある物体を表現しているように感じませんか? 擬人化ならぬ、擬物化された表現とでも言いますか。
 この表現文化は、どこからくるのでしょう? 謎は深まるばかり…。


 私の知っている外国語は英語のみ、それもかなり低水準です。フランス語は大学で2年やりましたが、全くわかりません(好きで2年やったのではありません。単位を落としてやり直しただけです)。
 他の言語は違うぞ、という知識をお持ちの方、ご意見をお待ちしております。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月24日 (土)

虫の声 英語と日本語

 よく知られている話ですが、虫の声を聞いたときに、日本人と欧米人では脳の中での反応が違うそうです。日本人が虫の声を聞くと、左脳で言語を扱う部分が反応し、欧米人では右脳の音を扱う部分が活動するという話。
 この違いは人種によるものではなく、欧米人の子供が日本で育つと、やはり虫の声を言語野で聞くようになるそうです。どうやら、日本語を使って育つことが、この条件のようです。
 と、ここまでは客観的事実。この先は、素人の独断による長話なので、お暇な方だけお付き合いください。

 話は少し飛躍します。
 絶対音感という能力は、ご存知ですね。すべての音を、音階として聞き取る能力のことです。この能力を持つ人たちは、楽器の音のみならず、救急車のサイレンや水滴の音までも「ドの♭」などの音階として聞き取ることができます。
 私たちが音楽を聴いたときに、普通は右脳の一部で音として処理します。ところが絶対音感のある人では、日本人が虫の声を聞いた時のように、左脳の言語野にも反応が出るといいます。
 絶対音感の持ち主は、音を一つ聞くとその音を「ド」なり「ソ」なりの音階で理解します。音が記号(音階)と対応するために、左脳の言語野が反応するのではないか、と私は思います。

 本題に戻ると、日本語は音と文字との結びつきが非常に強い言語です。たとえば「あ」という音を聞けば、それを表す文字「あ」を思い浮かべることができます。原則としてひとつの音節(母音と子音の組み合わせでできる音の一単位)には必ず、ひとつ以上の文字が対応しているからです。つまり日本語では「あ」のような一つの音だけでも、文字記号と対応することで言語的性格を帯びていると言えます。
 しかし、英語ではそうなっていません。
 
 「英語においては多くの文字が複数の発音を持っており、綴りと実際の発音の食い違いも大きい」(ネット上のフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
 受験勉強で嫌になるほど見た、発音記号。文字とは別の方法で発音を表さなければならないこと自体が、音と文字との関係の弱さを示しています。加えて、単語は必ずリズムとアクセントを伴います。リズムもアクセントもない単なる音を聞いて、文字や言葉に結びつけるのは、かなり難しいはずです。

 上記のことを前提に考えを進めます。
 日本語人が音を聞く場合には、日本語の音を物差しに聞き取りますから(虫の声→リリリ、など)、音ひとつでも言葉として認識するという日本語の特徴のため、言語野処理になるのではないかと考えられます。
 英語人が音を聞く場合には、英語の音を物差しに聞き取るでしょう。しかし、それは文字や単語に結びつきません。「音は音、言葉と無関係」ということで、音として処理されるのではないかと思うのですが、どうでしょうか?

 まあ、本当のところは専門家が考えてくださっていると思うので、知っておられる方は、お知らせくださると幸いです。
 ただ、この話を考えているうちに、英語と日本語についていろいろ思いつくことがあったので、いずれまた続きを書きたいと思います。


 私は言語の専門家ではなく、したがってこの文章の内容には、疑わしいところが多々含まれます。間違っている点に気付かれた方は、ご指摘くださいますよう、お願い申し上げます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月21日 (水)

人の顔が覚えられません…。

 どういうわけか、昔から人の顔を覚えるのが苦手です。一回や二回会っただけの人は、道で出会ってもまずわかりません。
 テレビを見ていても、そうです。俳優、モデル、芸人、わからない人だらけです。有名どころでは、中山美穂の顔が最近までわかりませんでした。テレビを見ながら「この人誰だっけ?」と聞くことしばしば。最近は努力の甲斐あって「この人、中山美穂だよね?」と尋ねることができるほど成長しましたが、メイクを変えたらわからないと思います。

 もっと苦手なのは、顔を思い浮かべることです。目の前にいなければ、自分の親兄弟でも「どんな顔だったかなあ…」と考え込むことがあります(もちろん、見ればわかります)。
 私の奥さんは私と逆で、写真で一度見ただけの人でも、何年も覚えていられます。本当に、記憶力には個人差があるものです。

 脳科学では、このような問題には育つ過程が影響するとしています。
 人間の脳は、生まれたときには未完成です。出生後、だいたい三歳までに脳神経が盛んに発達、七~八歳までには整理が行われて、基本構造が完成します。この間、脳の中では使われた部分が発達し、使われなかった部分は衰えて削除されます。つまり幼児期によく使われた部分は得意分野になりやすく、使わなかった部分は不得意分野になりやすいのです。
 では、極端な使い方をするとどうなるでしょうか? 1970年、生後間もないネコを縦縞(タテジマ) 模様の部屋で育てる実験の結果が報告されています。縦縞ばかり見続けたネコの脳では、縦縞を見る機能だけが異常に発達し、それ以外の機能は衰えました。その後、成長しても横縞(ヨコジマ)の認識に障害が残ったそうです。

 バランスの良い経験がないと、バランスの良い脳は育たないわけですね。単純な絵や字ばかりの幼児教育に奔走するお母様方には、聞かせたいような話ですが…。

 この実験が人間にも適用されるなら、私は幼児期、人の顔をあまり見なかったのでしょうか? 今となっては誰にもわかりません。
 そういうわけで、治療院をご利用くださっている皆様、道で出会った時に失礼するかもしれませんが、どうかご勘弁ください。できましたら、一声掛けていただけますと、嬉しいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 1日 (木)

表情筋も鍛えると増える!

 以前から思っていたのですが、民主党の党首は代々、人相が悪いですね。鳩山さんといい、菅さんといい、笑顔になっても、目が笑ってない…。
 今度の岡田さんも、就任当時はなかなかに美男子でしたが、日を追うごとに人相が悪く見えるようになってきました。

 人間の表情を作るのは、いわゆる表情筋です。普通の筋肉が骨を動かすようにできているのに対して、この筋肉は顔の皮膚などを動かします。魅力的な表情も嫌な表情も、この筋肉の作用にかかっています。

 筋肉の特徴のひとつは、容易に鍛えられることです。バーベルを持って鍛えれば、腕の筋肉がつきます。歩いたり走ったりすれば、足の筋肉がつきます。筋肉が増えれば、同じ動作をやすやすとできるようになります。
 さて、表情筋も筋肉ですから、やはり使えば鍛えられます。怒っていれば、怒る時に使う筋肉が増えます。そして、ますます怒った顔がやりやすくなります。不機嫌な顔をすれば、不機嫌用の筋肉が増えて、不機嫌顔が得意になります。
 また顔の皮膚も、使われ具合に応じて変化します。よく笑う人の目尻に笑い皺ができて、魅力的な風貌になるのは、皆さんご存知のとおり。
「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持たなくてはならない」
 これは、リンカーンの言葉です。

 民主党の場合、党首の発言を見ていると、与党の文句を言うシーンが多いことに気がつきます。「小泉政権が何をやったのか?」etc…。
相手を批判することも時には必要ですし、それで選挙に勝てると思うのならば、やってみるのも悪くはないでしょう。
 しかし、人の非を突くときは、目を吊り上げてニラミつける顔をしなくてはなりません。それを繰り返していれば、どんなに注意しても人相は悪くならざるを得ないでしょう。とくに、やっかみや恨みが混じっている時には。これは、元自民党の亀井さんなどを見ていてもよくわかります。

 政治家なら「こんな良いアイディアがある、これをやらせてほしい」という、夢なり信念なりを語ってほしいと思うのは、私だけでしょうか。きっと良い顔になるでしょうし、そういう前向きな言葉をこそ、国民は聞きたいはずです。
 そもそも、人の非難ばかりしている人に仕事を任せたいと考える人など、いないのですから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月 3日 (水)

子供を守る教育

 先日、新聞でCAPプログラムというものが紹介されていました。子供が犯罪、虐待、イジメなどの暴力を受けないための知識・スキルを与える、「子供への暴力防止プログラム」のことだそうです。
 内容としては「自分・他人の権利を知ること」から始まり「危険から逃げること」「不当な要求を拒否すること」、そして「信用できる大人に相談すること」などを、具体的な訓練を通じて教えているようです。また、大人にはその子供をサポートするスキルを教えています。
 そんな教育をまとめあげた人、教える人たちがいることに、感動しました。

 子供に対する暴力が悲惨なのは、被害者である子供が「自分が不当な被害を受けた」と、気付きにくいことにあります。
 大人は人間関係の知識がありますから、不当な暴力を不当だと理解できます。平たく言えば、殴られた時には「怒っていい」とすぐにわかるのです。
 しかし子供は人生経験が少ないため、わけもなく殴られたのか、理由があって殴られたのかを、即座に判断できません。怒るどころか、相手の言葉にいいくるめられて「僕が悪いから殴られたんじゃないだろうか?」と考えてしまうケースさえ、少なからずあるそうです。

 もっと日常的な暴力、イジメでもそれは同じです。イジメを受けるような子供は概しておとなしく、自分が不当な扱いを受けても抗議できません。そのため「イジメられる役割」にはめ込まれて、意思も反抗も封じられてしまいます。イジメる子供もまた、正しいことと正しくないことの基準がわからないので、笑いながらイジメに参加してゆくのです。

 知識は、自分と他人を守る武器になります。
 「自分は暴力を受けない権利がある」と知ることは、被害者の立場から抜け出す第一歩になります。
 「嫌なことは嫌だと言うこと」「逃げること」ができれば、自らを救う力を得るでしょう。
 そして「信頼できる大人に相談する」ことができれば、人を信じる気持ちを失わないでいられます。
 また、子供が人の気持ち、権利に想像が及ぶ訓練ができれば、加害者になる可能性を少しでも減らせるでしょう。

 自分と他人とを大事にできる子供。それを支える大人。
おそらく、平和な社会というのは、こういう地道な活動の先にしかないのでしょう。
 私は、この活動をする人たちを支持したいと思います。
 
付記
 上記文章のCAPプログラムについての説明は、八起堂の理解によるものです。内容の間違いや、誤解を与える表現がありましたら、それは八起堂の責任に帰すものです。
CAPプログラムについての正確な知識を必要とされる方は、CAPセンター・ジャパンに連絡を取るか、関係書籍を読むことをお勧めします。下記ホームページから情報が得られます
(参考 CAPセンター・ジャパンのホームページ http://www.cap-j.net/

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年7月22日 (金)

タウリン、タコ足一本分!

 リポビタンDなどのコマーシャルでよく聞く「タウリン1000㎎配合!」。
 偉そうに言っているそのタウリン、いったい何の役に立つのか? コマーシャルは説明してくれないので、調べてみました。

日本食品標準成分表には記載がないので、いろいろあたってみると製薬会社「廣貫堂」のホームページ「健康コラムMORE」(http://www.koukandou.co.jp/jiten/koramu/back/no2/more.html)に、記載がありました。
これによるとタウリンはアミノ酸の一種で、①肝機能アップ②コレステロール代謝促進③心肺機能強化、などの働きがあるらしいです。要するに「疲労回復・生活習慣病予防」に役立つということになります。

このコラムでは、タウリンが含まれる主な食品も列挙されていました。サザエ、カキなどの貝類、タコ・イカなど。リポビタンの「タウリン1000㎎!」はどのくらいかというと、手軽なタコに換算して、115グラム分。タコ一匹を1.5㎏とすると、だいたい足一本分くらいの計算になります。

わかりやすく表現すると、コマーシャルはこうなります。
「ファイトォー! いっぱぁぁぁつ!
 タウリン、タコ足一本分配合!」

 元気が出るよりも、酒がほしいですね……。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月18日 (月)

追加は簡単、変化は困難

テレビの健康番組で寒天が紹介されて以来、どこでも寒天が大売れらしい。寒天は繊維質が豊富で、カロリーはほぼゼロ。しかも夏向けということを考えれば売れるのもわかるが、やはり健康番組の威力は大きい。
しかし健康番組が提案すれば必ず流行するか、というとそうではない。流行するには、条件がある。それは「追加する食品」という条件だ。

「追加する」ということは、今までの生活を変えないことを意味する。今までと同じ食事をし、同じように寝起きしながら、寒天を口にする。少し前に大売れしたココアやニガリ、もうひとつ前に流行した赤ワインにも、それは共通している。これが「干ししいたけ」のように、食事のメニューに関わるものになると、流行の可能性はぐっと減る。

人間は本能的に、変化を嫌う。今までの生活を変化させないまま、いい結果だけを得たいと考えるのは、食事の面でも同じなのだ。
まあココアや寒天をいくら食べても大した害はないし、経済的な負担も小さい。怪しげな健康食品にくらべれば、はるかに問題は少ないといえる。カロリーオーバー(特にココア)だけ気をつけていれば、いろいろ試してみるのは悪いことではない。

もっとも、これだけは言っておきたい。
特定の食品を付け加えるよりも、日常の生活を少し変えるほうが、はるかに健康効果は高いのだ。
寒天を食べるよりもカロリー制限のほうが体重は減りやすいし、赤ワインよりも脂肪分を減らして野菜を食べる方が心臓にいい。高血圧に効く食品よりも、塩分を控えて軽い運動をするほうが血圧は下がる。たいていの生活習慣病は①脂肪を減らす②塩分を減らす③軽い運動、の三つで、かなりの部分が防げるのだ。
「健康にいい食品」を食べるとき、ついでに何か生活を変えてみてはどうだろう? 野菜を食べる習慣でも、運動の習慣でも、塩を少し減らしてみるのでも。変化は追加よりも難しいが、チャレンジする価値はある。
変化にチャレンジするのは脳にもいいらしいし…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)